前回の記事では、三木市内の若宮は若宮八幡と呼ばれている、かつては呼ばれていた神社でした。今回は全国的にも有名な神社の若宮を見ていきます。
住吉大社は写真が主体、春日大社は文章のみになっています。
●住吉大社
住吉大社内にも若宮があります。
その若宮がある住吉大社の祭神は三韓遠征から帰ってきた神功皇后と、遠征時に船の守護として祀っていた住吉三神・底筒男命、中筒男命、上筒男命を祭っています。
では、若宮を見てみましょう。
この若宮は八幡神社で、祭神は応神天皇と武内宿禰です。応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の間の子どもで、神功皇后の三韓遠征中に生まれたと言われています。
住吉大社が三韓遠征に携わった神々をまつっていることから、船型の神輿もありました。
●春日大社
(参考ウィキペディア、「春日大社」「春日若宮御祭」「藤原忠実」「藤原忠通」「藤原忠真」)
藤原氏の氏社である春日大社の祭神は、藤原氏の守護神・武甕槌命、同じく氏の守護神・経津主命、藤原氏の祖神・天児屋根命、その妻の比売神です。この神社は神護景雲2年(768年)と伝わります。
若宮の祭神は天押雲命で、祖神・天児屋根命の息子とされています。古事記、日本書紀などには確か出ていないはずですが、14世紀成立の「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要(リンク先コンピュータ上の11ページ・本文18、19ページ)」には書かれています。なので、藤原氏の伝承では語られていたのかもしれません。
この若宮は創建当初からあったわけではなく、長保五年(1003)に初めて現れたと言われており、保延元年(1135)に社殿ができ、翌年よりは春日大社最大級の祭とも言える御祭が定例化しました。
●春日若宮御祭定例化の背景
では、なぜこのような祭が定例化したのでしょうか。祭の始まりに関わる年代と、その当時の政(まつりごと)から考えていきます。
若宮が初めて現れたと「書かれた」長保五年(1003)は、藤原道長らが栄華を謳歌した時代です。この栄華を再び取り戻すことを願ってのことだと思われます。
さらに、若宮の創建、御祭を「名目上」取り仕切ったのは当時15か16歳だった藤原頼長で、それを推していたのは父の藤原忠実です。この忠実は、まさしく、藤原氏の氏長者を若宮を思わせる頼長に継がせたかったという意思が見られます。その忠真もまた、父師通と母全子の嫡男として生まれており、父師通に母全子は離縁され、母全子は師通を恨んだとされています。なので、忠真も「子の神・若宮」を重んじる気持ちが強くなるのもわかります。本社と外れたところに御子神をおき、その祭を盛大にするのは、藤原氏の政(まつりごと)が背景にあったようです。
住吉大社は写真が主体、春日大社は文章のみになっています。
●住吉大社
住吉大社内にも若宮があります。
その若宮がある住吉大社の祭神は三韓遠征から帰ってきた神功皇后と、遠征時に船の守護として祀っていた住吉三神・底筒男命、中筒男命、上筒男命を祭っています。
では、若宮を見てみましょう。
この若宮は八幡神社で、祭神は応神天皇と武内宿禰です。応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の間の子どもで、神功皇后の三韓遠征中に生まれたと言われています。
住吉大社が三韓遠征に携わった神々をまつっていることから、船型の神輿もありました。
●春日大社
(参考ウィキペディア、「春日大社」「春日若宮御祭」「藤原忠実」「藤原忠通」「藤原忠真」)
藤原氏の氏社である春日大社の祭神は、藤原氏の守護神・武甕槌命、同じく氏の守護神・経津主命、藤原氏の祖神・天児屋根命、その妻の比売神です。この神社は神護景雲2年(768年)と伝わります。
若宮の祭神は天押雲命で、祖神・天児屋根命の息子とされています。古事記、日本書紀などには確か出ていないはずですが、14世紀成立の「新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要(リンク先コンピュータ上の11ページ・本文18、19ページ)」には書かれています。なので、藤原氏の伝承では語られていたのかもしれません。
この若宮は創建当初からあったわけではなく、長保五年(1003)に初めて現れたと言われており、保延元年(1135)に社殿ができ、翌年よりは春日大社最大級の祭とも言える御祭が定例化しました。
●春日若宮御祭定例化の背景
では、なぜこのような祭が定例化したのでしょうか。祭の始まりに関わる年代と、その当時の政(まつりごと)から考えていきます。
若宮が初めて現れたと「書かれた」長保五年(1003)は、藤原道長らが栄華を謳歌した時代です。この栄華を再び取り戻すことを願ってのことだと思われます。
さらに、若宮の創建、御祭を「名目上」取り仕切ったのは当時15か16歳だった藤原頼長で、それを推していたのは父の藤原忠実です。この忠実は、まさしく、藤原氏の氏長者を若宮を思わせる頼長に継がせたかったという意思が見られます。その忠真もまた、父師通と母全子の嫡男として生まれており、父師通に母全子は離縁され、母全子は師通を恨んだとされています。なので、忠真も「子の神・若宮」を重んじる気持ちが強くなるのもわかります。本社と外れたところに御子神をおき、その祭を盛大にするのは、藤原氏の政(まつりごと)が背景にあったようです。
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