お寺のオバサンのひとりごと

心のマッサージにお寺へ行こう!

今、私ができることを その2

2009年06月15日 | 雑感
 今もジコチュウは治りませんが、
 若い時は、もっともっとジコチュウで、愚痴が多い私でした。

 年を重ねた今は、草取りも掃除も 若い時ほどは、苦になりません。
 一人で法務、お茶だしに走り回っていることも、楽しんでいます。

 と、いうか・・・どうせ、しなくちゃいけないことならば、愚痴ばかり よりも
楽しく したほうが 自分にとってハッピーですし・・・

 こうして、元気に草取り、お茶だしに走り回わることができるのも 今、健康に恵まれているからであって、有り難いことですし・・・

 参詣の皆さんが、気持ちよく「お寺にお参りに来てよかった」と思ってくださることが、お寺を預かる者の、一番の喜び、つとめ ですから。

 私の理想は
 どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、のんびり、日だまりにいるような顔をしている人。

 どんなに陰で苦労していても 陰の大変さを見せない人。
 
 それも、無理に不満を抑え込んだ「作り笑顔」でなく
 苦労を不満と思わないことから生じる、自然体の穏やかな笑顔

 そういう人に 私は、なりたい  まだまだ、理想に遠いです。
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今、私ができることを

2009年06月13日 | 雑感
 長女がお寺の雑務を手伝ってくれるようになって、随分楽になりました。

 掃除、草取り、お茶だし・・・

 今まで、住職の代わりに、ここ(法専寺)で、私が法務(お坊さん)を勤める時は、
 一人で掃除、花生け・・・など前準備、
 当日、勤行、法話の仏事を勤め
 仏事終了後は、「座敷のほうへ、どうぞ」と、ご案内した後、
 座敷にダッシュして、参詣の皆さんに、お茶だし
 お見送りしたら、 私服に着替えて後片づけ

と走り回っていました。

 東京で毎日のように終電まで働いていた娘の頭も、「会社モード」から「お寺の主婦モード」に徐々に切り替わっている・・・と思って(期待して)います。

 私もお寺に嫁に来た当初は、草取りしながら、

「あ~あ、こうして毎日、頭を使うこともなく、留守番、掃除、草取り、お茶だしの繰り返しで、一生終わっちゃうのか~

な~んて、まさに「驕り、高ぶり、よこしまの~」不満を持ちつつ、草を引いておりました。

つづく・・・

 
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人の幸せは・・・その4

2009年06月10日 | 仏教
 さて、もとに戻って、「人の幸せは・・・その1」で、ご紹介した、私が人に言われたこと。

 のうのうと日だまりの中に生活しているから、「仏教を有り難い」だなんて、呑気に言っておられるのだ。苦労している人間にとって、何が有り難いんだか、さっぱりわからない   

というご意見。

 そうかなあ
 むしろ、悲しい出来事に遭遇した時こそ、仏の教え を より有り難く味わえるのではないでしょうか。
 決して、悲しみがなくなるわけではない。苦しみが消滅するわけでもない。

 ジタバタしながらも・・・泣きながらも・・・たくましく逆境を乗り越えて生きる力 を 仏さまにいただく。

 それが、仏の教えを歓んでいる者が言う「仏教は有り難い」って言葉なんです。

 普通、ラッキーな時にしか口に出ない「ありがたい」って言葉ですが、

 悲しみの中で、「この教えに育てられているお蔭で、この苦しみも何とか耐えてゆけそうです」という「有り難さ」

 もちろん、うれしい出来事に遇えた時は、より一層ハッピーに感じることができます。
 また、なにげない日常も、決して「当たり前」と鈍感に生きることなく、一瞬一瞬をより尊く「有り難く」感じられるのだと そう味わっております。
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人の幸せは・・・その3

2009年06月09日 | 仏教
 いつも、美しい心、穏やかな心を保ちたい と思っていても
ひょっこり出てくる のが、私の本性です。

 押さえようと努力しても、どうしようもない 自分中心の醜い心を秘めている 

 そう自覚させられるのは、仏さま(真如)の力
 智慧の光に照らされて気づくことです。
 
 空気中のチリに気づかないまま、生活している私ですが・・・
 スーッと射し込む光 に 空気中のチリが照らされ、初めて、チリの存在に気づくように・・・
 自分の、ふつふつと沸き上がる 醜い心 を 自覚して「恥ずかしい」と思う。
 
 謙虚に「恥ずかしい」と頭が下がるのが 仏さまとの出逢いであります。

 「恥ずかしい」と自覚するってことは、「凡夫」の自覚をもつ ってことです。

 仏さま以外は、皆、どうしようもない「自己中心性」の心をかかえた凡夫。私もあなたも。

 自分が「正義」「善」ではないし、相手が「正義」「善」でもない。

 絶対「善」は、仏の世界だけのこと。

 そうです。私もあなたも「自己中心性」を丸抱えのまま、許されて生きているのですから・・・

 そう思うと、「しょうがないなあ」と、なんだかちょっぴり、人にも寛大になって、少しは、気が楽になりませんか

 

 
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人の幸せは・・・その2

2009年06月08日 | 仏教
 「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、怒り や 腹立ち や そねみ や ねたみ の心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終わろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもないと・・・

 上記は、親鸞聖人の言葉(一念多念証文〔現代語訳〕より)です。


 私たち、フツーの人間は、
 欲も多い
 思い通りにならないことに、あるいは、自分のプライドが傷つくことに、すぐ腹を立てる
 人の幸せに妬み心が起こってしまう

 それは、無明煩悩が満ち満ちているから・・・

 無明=真理に暗く、もののあるがまま を理解できない つまり、自分中心の物の見方・考え方(自己執着心)を離れられない 根本的な煩悩

 
「自分は、教養も常識もあるし、思いやりもある、そこそこ良い人間だ」と、自惚れているのが、大方の現代人でありますが・・・

 真如(あるがまま・仏の世界)に相対して、自分の心をよ~く見つめてみたら・・・
無明煩悩の満ち満ちたお恥ずかしい私でした と、気づかされるのであります。

 でも、
 気づかされ、改めようと思っても・・・わかっちゃいるけど、やめられない

 相変わらず、カッとなったり、嫉妬したり・・・そのキタナイ心を押さえ込もうとしても、つい、つい、出てしまう・・・

 ああ、私の心ってキタナイなあ、救いようがないなあ  

 そういう私を 「救う」 と、はたらいて くださっているのが 阿弥陀さま なんです。
 まあ、何と有り難く、幸せなことでは、ありませんか

つづく・・・

 

   
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人の幸せは・・・

2009年06月05日 | 仏教
 ある時、「仏法に出逢えて、よかった ありがたい」と、いつもの調子で話していた私に、
 ある方が
 「それは、貴女が、幸せだから言えることであって、不幸な人間に仏教を歓ぶ こころの余裕はない
と言われた・・・

 やはり、私って、ノーテンキだからか
 私が仏さまのお話をしても、説得力がない・・・

「何の苦労も知らない専業主婦のくせに、ちょっと仏教を聞きかじったくらいで、生意気な」という反感をもたれる方がおられるってことを認識した。

 人は「不幸な」(それも自分の主観で、自分と比べて「不幸」と思う)人の 苦労話 は、「えらいなあ~」と、素直に聞く。

 自分は、「アイツよりマシだ」と、同情と自己満足の入り交じった心で・・・

 でも、「幸せな」(これも自分の主観で「幸せ」と思う)人の 話は、嫉妬 や 反感 で聞く。

 だから、当人はありのままに話しているつもりでも、それが「自慢話」に聞こえるなら、嫌われる。
 同じありのままでも、失敗談なら、喜ばれる。

つづく・・・

  
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篤く三宝を敬え その2

2009年06月04日 | 仏教
 ご存知、聖徳太子は、仏教を 正しく 篤く 信心された方です。
 
 後に仏教が、国家安泰を願う「祈願的なもの」と誤解され、利用されてゆくことを思うと、
 聖徳太子の仏教理解は、正しく、尊いことでありました。

 親鸞聖人は、聖徳太子を 大変尊敬され、讃えられています。
 従って、浄土真宗の寺院に「聖徳太子」の絵像が顕彰されているのです。

 聖徳太子の書かれた十七条憲法に「篤く三宝を敬え・・・」とありますね。

 三宝とは、「ぶっぽうそう」
「仏」=ブッダ=真理を覚った者
「法」=ダルマ=時間、場所を超えた永久不変の真理
「僧」=サンガ=仏の教え(真理)を学ぶ仲間



 現代人の「三宝」は何でしょう 「お金」「名誉」「家族」でしょうか?
 いずれにせよ、私利私欲だけじゃ、とんでもないヒドイ世の中になってしまいます。



 
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篤く三宝を敬え

2009年06月02日 | 仏教
 浄土真宗のお寺の本堂は「内陣」(ないじん:一段高くなっていて、仏さまを安置し、法要儀式を行う場所)と「外陣」(げじん:私たちが仏法を聞く場所)に別れていますが・・・

 先日、お婿さんに内陣の説明。
 
 真ん中が、ご本尊の「阿弥陀如来」、別名「南無阿弥陀仏」
 
 ご本尊の(向かって)右隣の厨子に顕彰されている方(絵像)が、宗祖「親鸞聖人」
 
 ご本尊の左隣は、8代目の蓮如上人

 その左端は、七高僧(インド~中国~日本と、「阿弥陀如来」の教えについて論文を書かれ、本願他力の教えを 導いてこられた七人の高僧の絵像)
 
 親鸞聖人の右隣、つまり、一番右端は、聖徳太子・・・

と、言ったところで、お婿さんが「どうして、聖徳太子なんですか

 当然の質問です。つい、最近まで、娘も右端の絵像が「聖徳太子」であることを知らなかった・・・(えっ~ いったい何年、お寺に住んでいるの~ がっくり 

つづく・・・
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救われる その2

2009年06月01日 | 仏教
 仏教が 「脱世間」の教え  と言うと、

 「私たちは世間に生きているのだ 脱世間の教えなんか、役に立たないじゃないか。霞を食って生きているわけじゃない 勝つか負けるかの厳しい世間に生きているんだ。仏教なんて、さっぱりわからん

と、仰る方がおられます。

 う~ん、何だか、仏教って、浮世離れした きれい事を言っている・・・と誤解されているようです。
 
 宗教でさえ、自分の価値観の都合に合わせて解釈し、利用しようとする・・・

 だから、(自分が得すると思う)除災招福の宗教 とか スピリチュアル とか 占い とか 好きな方が多いです。

 本当は、そういう 自分の心こそ 問題なのであって、
 
 「自分を棚上げしたまま、自分に好都合なことを願う」のでは、いつまでたっても、愚痴、不満、自己嫌悪や相手を責めるだけの生活で、一生で終わってしまう・・・

 仏教は、世間の価値観を全て「悪い」と否定しているわけではありません。

 ただ、「世間の価値観」という井戸に どっぷり漬かっている私  に、

 井戸の外の広い世界 を知らしめること

 それが 仏の教え、「救い」ではないでしょうか?
 
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