冬期に入り、やっと自由な時間が取れるようになってきたはっちん。
久しぶりに東山・清水寺とその周辺を散策してきました。
近年、久しく清水に行く機会に恵まれなかったはっちんですが、
同じ京都で、観光地を職場とするものとして、京都観光の王道、東山・清水には
並々ならぬ興味を持っており、リサーチも兼ねての清水行きでした。
今回は直に清水寺を目指すことにし、観光ルートの定番である祇園からは歩かず、
市バスで清水坂停留所まで行くことに。
清水坂停留所で下車すると清水寺まではかなり急な坂道が続きます。
このコースは坂が厳しいうえに、普通の民家しかなく
のんびり散策される観光客にはオススメはできません。
息を切らせて坂を登ること10分。法観寺の五重の塔を仰ぎながら
やっと清水寺の山門に着きました。
山門を潜り、舞台造りで有名な本殿へ出ると、眼下一面に京都の町の風景が広がります。
清水の舞台から観る景色は何度観ても圧巻であり壮美です。
さすがは人気随一の古刹であることを納得!
この清水の舞台は、高さが13mもあり、堅牢なケヤキの木柱78本で支えてあります。
釘は一本も使ってないことが、日本の宮造りの伝統技法の高さを物語っています。
元々は小さな観音堂に過ぎなかった清水寺。
平安初期に征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)の帰依を受け
大きな堂塔を建立して面目を一新したそうです。
今の建築は徳川家光・三代将軍によって、当時の建物そのままに造立したもので、
本堂や奥の院に掲げられた扁額(門戸や室内掛けられた絵や版画等の額)が、
いかにも桃山文化のおおらかと優雅さ残しています。
家光が建立する際に、経済的な協力をしたのが、保津川下りの生みの親・
角倉了以・素庵親子であるということも、親しみを感じます。
「清水の舞台から飛び降りる気で・・・」というのは決死の思いとか決意を
表すことわざとして有名ですが、本当にこの舞台から飛び降りた人はかなりいるのです。
観音信仰に根ざし補陀落浄土への旅立ちを願う心情の発露の行為であり、
平安時代から江戸時代まで、10,20代の若い町人を中心にかなりの人が飛び降りています。
以外と生存者が多かったと聞きますが、寺が飛び降りた人の生死の記録などを
細部にわたってしっかり記録しているのには驚きです。
明治に入り、京都府が舞台からの「飛び降り禁止令」を
発令していることからも、いかにこの信仰が永きにわたり
庶民の中で厚かったのかが伺い知れる話です。
舞台の下・音羽山から沸き出る滝の霊水を酌みで飲み干し、
御利益を祈ります。3本の滴り落ちる細い滝には延命長寿、縁結び、学業成就
の3つの御利益があるといわれます。この3つの願いの内、どれか一つだけを
心に念じて飲むと効用が得られ、欲張ると御利益全てがなし!となるそうなので
ご注意下さいね。はっちんはこの中のなにを願ったか?それはヒミツにしておきます。
帰りは三寧坂から二寧坂の急な石畳を下りながら、お土産屋さんをひやかし、
高台寺前の‘ねねの道’をのんびり歩いて祇園・八坂神社まで散策しました。
しかし、東山・清水界隈は凄い人出でした。お土産屋さんの人に聞けば、
一年中、観光客の波は途絶えないそうです。
同じ京都の有名観光地でありながら、冬になると一気に人出が減る、
嵐山・西山界隈をホームグランドにする
はっちんとしては、なんとも羨ましい風景でした。
*写真は清水の山門前です。西陣織の金欄ハンチング帽に注目!
京都で、西陣金欄創作の新進気鋭のアーチスト「MーHERO」の
手造り帽子です。海外の観光客の注目の的になってしまいました。
もちろんそれを狙っていたのはいうまでもありませんが。
久しぶりに東山・清水寺とその周辺を散策してきました。
近年、久しく清水に行く機会に恵まれなかったはっちんですが、
同じ京都で、観光地を職場とするものとして、京都観光の王道、東山・清水には
並々ならぬ興味を持っており、リサーチも兼ねての清水行きでした。
今回は直に清水寺を目指すことにし、観光ルートの定番である祇園からは歩かず、
市バスで清水坂停留所まで行くことに。
清水坂停留所で下車すると清水寺まではかなり急な坂道が続きます。
このコースは坂が厳しいうえに、普通の民家しかなく
のんびり散策される観光客にはオススメはできません。
息を切らせて坂を登ること10分。法観寺の五重の塔を仰ぎながら
やっと清水寺の山門に着きました。
山門を潜り、舞台造りで有名な本殿へ出ると、眼下一面に京都の町の風景が広がります。
清水の舞台から観る景色は何度観ても圧巻であり壮美です。
さすがは人気随一の古刹であることを納得!
この清水の舞台は、高さが13mもあり、堅牢なケヤキの木柱78本で支えてあります。
釘は一本も使ってないことが、日本の宮造りの伝統技法の高さを物語っています。
元々は小さな観音堂に過ぎなかった清水寺。
平安初期に征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)の帰依を受け
大きな堂塔を建立して面目を一新したそうです。
今の建築は徳川家光・三代将軍によって、当時の建物そのままに造立したもので、
本堂や奥の院に掲げられた扁額(門戸や室内掛けられた絵や版画等の額)が、
いかにも桃山文化のおおらかと優雅さ残しています。
家光が建立する際に、経済的な協力をしたのが、保津川下りの生みの親・
角倉了以・素庵親子であるということも、親しみを感じます。
「清水の舞台から飛び降りる気で・・・」というのは決死の思いとか決意を
表すことわざとして有名ですが、本当にこの舞台から飛び降りた人はかなりいるのです。
観音信仰に根ざし補陀落浄土への旅立ちを願う心情の発露の行為であり、
平安時代から江戸時代まで、10,20代の若い町人を中心にかなりの人が飛び降りています。
以外と生存者が多かったと聞きますが、寺が飛び降りた人の生死の記録などを
細部にわたってしっかり記録しているのには驚きです。
明治に入り、京都府が舞台からの「飛び降り禁止令」を
発令していることからも、いかにこの信仰が永きにわたり
庶民の中で厚かったのかが伺い知れる話です。
舞台の下・音羽山から沸き出る滝の霊水を酌みで飲み干し、
御利益を祈ります。3本の滴り落ちる細い滝には延命長寿、縁結び、学業成就
の3つの御利益があるといわれます。この3つの願いの内、どれか一つだけを
心に念じて飲むと効用が得られ、欲張ると御利益全てがなし!となるそうなので
ご注意下さいね。はっちんはこの中のなにを願ったか?それはヒミツにしておきます。
帰りは三寧坂から二寧坂の急な石畳を下りながら、お土産屋さんをひやかし、
高台寺前の‘ねねの道’をのんびり歩いて祇園・八坂神社まで散策しました。
しかし、東山・清水界隈は凄い人出でした。お土産屋さんの人に聞けば、
一年中、観光客の波は途絶えないそうです。
同じ京都の有名観光地でありながら、冬になると一気に人出が減る、
嵐山・西山界隈をホームグランドにする
はっちんとしては、なんとも羨ましい風景でした。
*写真は清水の山門前です。西陣織の金欄ハンチング帽に注目!
京都で、西陣金欄創作の新進気鋭のアーチスト「MーHERO」の
手造り帽子です。海外の観光客の注目の的になってしまいました。
もちろんそれを狙っていたのはいうまでもありませんが。