保津峡の雪景色はなんともいえない印象的な空間だ。
雪にけぶる山々の純白さが、峡谷に流れる静寂さを
より一層深いものに感じさせてくれる。
まちの喧騒や日常の暮らしが、今、同じ時を
流れていることすら、疑わしくなる。
何もない渓谷の深い静寂は、自分と向き合う時間を与えてくれる。
何も‘ない’ということは・・・すべて‘ある’ということ。
何も‘ない’ということこそ、すべて‘ある’ということだと気付く。
この大自然の中ではほんの点に過ぎない存在の私。
しかし、それはけして‘孤独’ではない。
自分自身が自然であるから、孤独ではないのだ。
保津川の清い流れと峡谷に漂う深い静寂が、
新しい自分に出会わせてくれる。
文明の進歩を拒否するかの様な、手こぎの和船に揺られ
‘自分さがし’の旅がはじまる。
身を切る様な冷たい風と静寂の峡谷を
船をこぐ櫂の音だけが響く。
この静寂感を破らないためか?
日頃の饒舌さは身を潜め、寡黙になる船頭衆。
ビニール越しに見る船頭との間に流れる微妙な緊張感。
でもそれがまったく否ではない。
厳しい自然と対峙する‘凛’とした
緊張感はなぜか心地よくさえある。
雪の保津川の川舟は、鮮烈な印象を胸に残してくれる。
それはけして過去のノスタルジーではない。
今、このときに、全く異なる空間が存在しているという
‘錯覚’を楽しむ。
この光景は銀世界の極地。
見る者を幽玄の世界へと誘う。
冬の京都の趣きがここにも確かに、ある。
文明社会で忘れかけていた、ひと本来の豊饒な感性が
揺り起こされ、誰をも詩人にする。
保津川の自然の前では、自分はなんとちっぽけな存在なのだ。
でもそれは絶望ではなく、自らの内にいのちの灯火を
見つけたという‘感動’。
白銀の世界に映る、赤く燃えるいのちの炎。
いつもの京都に物足りなく感じたら、
是非、冬の保津川を訪れてみるといい。
日常、呪縛から解き放たれ、暫し、ありのままの自分を
眺めてみるのもわるくない。
ここには全過去、全現在、全未来が、
‘いま’‘ここ’にのみあり、
自己として実在している。
そのことを保津川の自然は教えてくれるに違いない。
雪にけぶる山々の純白さが、峡谷に流れる静寂さを
より一層深いものに感じさせてくれる。
まちの喧騒や日常の暮らしが、今、同じ時を
流れていることすら、疑わしくなる。
何もない渓谷の深い静寂は、自分と向き合う時間を与えてくれる。
何も‘ない’ということは・・・すべて‘ある’ということ。
何も‘ない’ということこそ、すべて‘ある’ということだと気付く。
この大自然の中ではほんの点に過ぎない存在の私。
しかし、それはけして‘孤独’ではない。
自分自身が自然であるから、孤独ではないのだ。
保津川の清い流れと峡谷に漂う深い静寂が、
新しい自分に出会わせてくれる。
文明の進歩を拒否するかの様な、手こぎの和船に揺られ
‘自分さがし’の旅がはじまる。
身を切る様な冷たい風と静寂の峡谷を
船をこぐ櫂の音だけが響く。
この静寂感を破らないためか?
日頃の饒舌さは身を潜め、寡黙になる船頭衆。
ビニール越しに見る船頭との間に流れる微妙な緊張感。
でもそれがまったく否ではない。
厳しい自然と対峙する‘凛’とした
緊張感はなぜか心地よくさえある。
雪の保津川の川舟は、鮮烈な印象を胸に残してくれる。
それはけして過去のノスタルジーではない。
今、このときに、全く異なる空間が存在しているという
‘錯覚’を楽しむ。
この光景は銀世界の極地。
見る者を幽玄の世界へと誘う。
冬の京都の趣きがここにも確かに、ある。
文明社会で忘れかけていた、ひと本来の豊饒な感性が
揺り起こされ、誰をも詩人にする。
保津川の自然の前では、自分はなんとちっぽけな存在なのだ。
でもそれは絶望ではなく、自らの内にいのちの灯火を
見つけたという‘感動’。
白銀の世界に映る、赤く燃えるいのちの炎。
いつもの京都に物足りなく感じたら、
是非、冬の保津川を訪れてみるといい。
日常、呪縛から解き放たれ、暫し、ありのままの自分を
眺めてみるのもわるくない。
ここには全過去、全現在、全未来が、
‘いま’‘ここ’にのみあり、
自己として実在している。
そのことを保津川の自然は教えてくれるに違いない。