保津峡の入口といわれる「宮下の瀬(みやのした)からしばらく流れていくと、
左岸側に三角の形をした大きな岩が見えてきます。
この岩を私たちは「烏帽子岩(えぼしいわ)と呼んでいます。
「烏帽子」とは平安時代の貴人が礼服着装の際に被った帽子ことで、鎌倉時代以降
武家の「元服の儀式」で新成人の証として男子が着用していました。
岩の形がとんがった三角形で、この「烏帽子」に似ていることから
その様に呼ばれるようになったといわれています。
また、この烏帽子岩は、保津川の水運を語る上でとても重要な岩のひとつでもあります。
保津川の川舟は昭和23年頃まで、下った舟を終点の嵐山から出発点の保津の浜まで(約16km間)を麻の縄を使用し、
下り終えた船頭がもう一度、川岸を曳っぱり帰っていきました。
途中、大きな岩や石の横を通過する際には、曳き綱が引っ掛からないように
「綱はじき」とよばれる竹つくりの工作物が岩に沿う様に施されていたのでした。
その「綱はじき」のなかでも、最も大きな工作が施されていたのがこの「烏帽子岩」で、
一尺もある長い竹を使用しなと岩まで届かなかったともいわれています。
これは今年の1月、木造船を使用し60年ぶりに「保津川の曳き舟」を再現した時の写真です。
岩の裏に施されているのが「綱はじき」です。
この綱はじきは、川側に面する岩に‘しなり’をつけた竹が仕掛けてあり、
曳くごとに綱が上へ滑るように工夫がなされ、岩の頂上を綱が越える様に
作ってあります。
しかし、当時は曳き手となる船頭が走る「綱道」がもっと高い所に
作られていたことがわかり、写真で再現されている川側へのしなりはなく、
形状が少し異なったものであったと思われますが・・・
曳き舟にはひとり船頭が残り乗船しながら、綱の絡みやたるみを竿で直す役目をします。
舟の舳先に上り、竿で綱を叩いたり、弾かしたりしながら曳き手の船頭たちを助けます。
曳き手は先頭を走る「先綱」から約40数mの間隔をとり「中綱」「後綱」の
順番で一列に並び「舟を曳き、走った」といわれています。
このように舟に乗り竿を操る船頭と綱を曳き陸を走る船頭たちが、息と力を
合わせて協力しながら上流へ帰っていくのが保津川の曳き舟でした。
そして、曳き綱と曳き手が一直線上の角度を確保し、抵抗感なくスムーズに
曳き上げる為に施された工作物がこの烏帽子岩にみられたような「綱はじき」
だったのです。
保津川ではこの「烏帽子岩」をはじめ合計12ヶ所の「綱はじき」があったと
記録に残っております。
曳き舟作業が姿を消した今では、烏帽子岩は「おじゃる丸が被っている帽子」や
「神社の神主さんの帽子」のような岩として観光客に解説されるだけの岩に
なりました。
千年の都・京都を支えた保津川水運の歴史を語る上で欠かすことが出来ない
重要な岩であった「烏帽子岩」も、一つの大きな仕事・役割を終え、静かに
保津川の流れと観光船の運行を見守りながら、今もこの川岸に佇んでいるのです。
左岸側に三角の形をした大きな岩が見えてきます。
この岩を私たちは「烏帽子岩(えぼしいわ)と呼んでいます。
「烏帽子」とは平安時代の貴人が礼服着装の際に被った帽子ことで、鎌倉時代以降
武家の「元服の儀式」で新成人の証として男子が着用していました。
岩の形がとんがった三角形で、この「烏帽子」に似ていることから
その様に呼ばれるようになったといわれています。
また、この烏帽子岩は、保津川の水運を語る上でとても重要な岩のひとつでもあります。
保津川の川舟は昭和23年頃まで、下った舟を終点の嵐山から出発点の保津の浜まで(約16km間)を麻の縄を使用し、
下り終えた船頭がもう一度、川岸を曳っぱり帰っていきました。
途中、大きな岩や石の横を通過する際には、曳き綱が引っ掛からないように
「綱はじき」とよばれる竹つくりの工作物が岩に沿う様に施されていたのでした。
その「綱はじき」のなかでも、最も大きな工作が施されていたのがこの「烏帽子岩」で、
一尺もある長い竹を使用しなと岩まで届かなかったともいわれています。
これは今年の1月、木造船を使用し60年ぶりに「保津川の曳き舟」を再現した時の写真です。
岩の裏に施されているのが「綱はじき」です。
この綱はじきは、川側に面する岩に‘しなり’をつけた竹が仕掛けてあり、
曳くごとに綱が上へ滑るように工夫がなされ、岩の頂上を綱が越える様に
作ってあります。
しかし、当時は曳き手となる船頭が走る「綱道」がもっと高い所に
作られていたことがわかり、写真で再現されている川側へのしなりはなく、
形状が少し異なったものであったと思われますが・・・
曳き舟にはひとり船頭が残り乗船しながら、綱の絡みやたるみを竿で直す役目をします。
舟の舳先に上り、竿で綱を叩いたり、弾かしたりしながら曳き手の船頭たちを助けます。
曳き手は先頭を走る「先綱」から約40数mの間隔をとり「中綱」「後綱」の
順番で一列に並び「舟を曳き、走った」といわれています。
このように舟に乗り竿を操る船頭と綱を曳き陸を走る船頭たちが、息と力を
合わせて協力しながら上流へ帰っていくのが保津川の曳き舟でした。
そして、曳き綱と曳き手が一直線上の角度を確保し、抵抗感なくスムーズに
曳き上げる為に施された工作物がこの烏帽子岩にみられたような「綱はじき」
だったのです。
保津川ではこの「烏帽子岩」をはじめ合計12ヶ所の「綱はじき」があったと
記録に残っております。
曳き舟作業が姿を消した今では、烏帽子岩は「おじゃる丸が被っている帽子」や
「神社の神主さんの帽子」のような岩として観光客に解説されるだけの岩に
なりました。
千年の都・京都を支えた保津川水運の歴史を語る上で欠かすことが出来ない
重要な岩であった「烏帽子岩」も、一つの大きな仕事・役割を終え、静かに
保津川の流れと観光船の運行を見守りながら、今もこの川岸に佇んでいるのです。