保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

京都新聞・口丹随想に「人権」について書いた思いとは・・・

2010-08-25 01:42:35 | マスコミ出演
今日24日付けの京都新聞・丹波版「口丹随想」に私はっちんの記事が掲載された。
今回の投稿で3度目となる口丹随想だが、記事のテーマとして書いたのは「人権問題」

今年PTAの会長を務めて以来、各団体の人権啓発活動や研修会に参加する機会を頂いたことで、
自分なりに考えたことや感じたことを書かせてもらった。
人権と一口にいってもさまざまな問題があるわけだが、勉強させて貰ううちに、
この問題を考えるにあたり、抑えておかなければならない最も大事な視点があることに気づいた。

それは、差別感や人権侵害などが生まれる問題の根が、他のどこかにあるのではなく、
自分自身の心に潜む「人には優劣がある」という思考が要因となっていることを
忘れていけないことだ。

そして、この思考が実は何の根拠もない幻想であるということを
認識するところから「人権・差別」の撲滅は始まるということだ。

まず、この認識の上に立って「人権」や「差別」を考え、語らなければならない。

「人間には優劣がある」という思考が今、あなたの心に存在するなら、いくら
こんな研修会や啓発活動をしても意味がないということを先ず、抑えておかねばならない。

確かに、どんな人の心にも、他人との比較において、優劣感や階級意識、序列を作り上げる心理が働くことは認めよう。
しかし、これを自己の自尊心として自分自身の中で認めているいるうちはいいが、この心が他者を蔑み、
自分より下位の存在と見なし、弱者として排除する理由にしたり、淘汰していく心理に発展することが
本当は差別への入り口になっていること。

とはいえ、そうは言っても「人間には間違いなく優劣はあるじゃないか?」という考え方に
立つ人も非常に多くおられることだろう。

だが、それは人としての優劣さと能力をごっちゃにした考えにほかならない。

なるほど、人の個人の能力に関しては優劣はある。
走ることの速さや手先の器用さ、物覚えのよさ、体力、感受性、音楽の才能など。
私たちが持っている多くの能力のひとつひとつにおいては確かに優劣がある。
しかし、このことは、人ひとりひとりの存在としての優劣ではない。
ある人はこの点では優れていても、他の点においては不得手である。
また、この人は、違う能力に優れているだけのことで、人という存在自体には、
すべてにおいて優れた人とか、劣って人など存在しない。これが事実だ。

例えば偏差値が高い人が全てに優れた人か?偏差値は高いが、大工の経験がない人に
釘を打たせたら、釘一つ満足に打てない場合もある。一体どっちが優れているのか?
人間には優劣がない。人間はみな平等なる存在であるということ。

また、障害者差別なども、生命の進化の歴史をたどって考えれば、おかしな心理だ。
生命の進化学会によると、魚が虫になり、虫が鳥になり、鳥が畜類になり、
畜類が猿になり、人間にまで進化したといわれる。
この進化の過程で、魚が優等な魚ばっかりなら、この世は魚ばっかりになっていたそうだ。
魚におかしな種類のものが生まれ、虫になった。これが変異の進化である。
すなわち、虫は魚に奇形児、虫の奇形児は鳥、猿の奇形児は人間ということになる。
自分たち人間が奇形の産物であるにも関わらず、障害をある人を差別するのは
生物学的にも、これほど滑稽なことはない。

現在の生命科学の研究でも、地球上の生物の起源は「ダーウィン」の唱えた「個」から
始まったのではなく、「種」として発生したものであるという説が有力視されている。
つまり生命は個別に誕生したのではなく、種としてたくさん生まれたという説だ。
この視点に立てば、個と種は、二にして一なるもの。
個人が全人類50億であり、全人類が私でもあるというつながりで成り立つ。

我々は発想の転換、価値観の転換が何より必要で、この実践なしに
「差別なき、誰もが幸せに生きる」という理想は確立されない。
ましてや、この平等の精神を信じられない者がいくら「人権保護」「差別をなくそう」「いじめをなくそう」と
言葉だけの掛け声を連呼しても現実の問題になんら肉薄していかないだろう。

この世の中はいろんな人がいて成り立っている。自分だけが、あるいは自分だけの家族が
孤立して存在しているのではない。我が家だけよければいのではないはずだ。

そしてなにより、生きるということはどういうことか?

自分という人間は自分ひとりの『力』で生きているという傲慢な考え方ではなく、
自然や他の生き物、まわりの人たちに「生かされている」という現実を見極め、
認識することからはじめなくてはならない。
この生きていること=生かされているという認識の上に立ってこそはじめて、
人の尊厳ある生き方を守ることができると思うのだ。

生産性の優劣や文明の高低など、人がいま、ここに生かれているという絶対の尊厳に
比べれば、すべて誤差の範囲にしか過ぎない。

人は皆、その一つしかない絶対の人生を、必然の道として、尊厳ある人生を堂々と生きているのだ。

「人権」や「差別」「平等」を確立していくには、このことを我々ひとりひとりが、
自ら胸に問いかけ、ひたすら実践していくことしかないと思っているのだ。