私たち保津川下りと一緒に京都嵐山・保津峡観光を盛り上げている
嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車が今年20周年を迎えました。
このブログをお読みいただいている方はもうご紹介するまでも
ありませんが、嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車は平成3年度(1990)
に旧山陰線跡に開通した観光専用の鉄道のことです。
JR嵯峨嵐山駅に隣接するトロッコ嵯峨駅からトロッコ亀岡駅までの
7.3キロ間の峡間を、1時間に1往復しながら走っています。
四季折々の美しい保津峡景色を眺めながら、時速約20キロというゆっくり
した速度で走る癒し系のこの鉄道は、今では京都・嵯峨野を代表する
観光スポットとして、年間約95万人以上の観光客が訪れる
人気の観光列車に成長しました。
開通当初は、JR関係者や周囲の人々も「3年もったらいいほうだろう・・・」
と予想するほど、消極的な見方をしていましたが、長谷川一彦社長を先頭に
会社設立当初の社員のみなさまの頑張りで、今では毎年90万人を超える
観光客が訪れ、JR西日本関連企業の中でも、他の追随を許さない
優良企業となっています。
社長の長谷川さんは、その経営手腕が認められ、
政府(国土交通省)の観光カリスマにも選出されておられます。
社長から設立当時の苦労話や成功逸話を詳しく聞く機会のある私は、
操船時、トロッコ列車とすれ違うたびにこのサクセスストーリー秘話を
必ずお話しすることにしております。
「へぇ~そんな話があったのか?」
「こんな隆々としている列車なのにね~」
と皆さん、大変興味を持ってお聞き下さるので、私のトークネタ、
でも五指に入るオモシロ話しとしてランキングしています。
さて、そんな経緯のあるトロッコ列車ですが、この列車が開通は
私の人生にとっても大きく左右する出来事でもあり、実は
とても深い関係性があるのです。
トロッコ列車が開通した平成3年以降、保津峡観光は大きく姿を変えました。
嵯峨野からトロッコ列車に乗って亀岡へ入りし、亀岡からは保津川下りに
乗船して京都嵐山へ帰るコースがつくられ、このセットコースは売り出し
当初からもの凄いヒットコースとなり、静かな渓谷は一躍、賑やかな歓声が
こだまする一大観光スポットなったのです。
トロッコ列車に乗車したお客さんが大量にお越しになった保津川下りの
乗船場では連日、慢性的な混雑状態となりパニックを起こしていました。
うれしい悲鳴ではあるのですが、次から次へと途切れなくお越しなる
お客さんに、舟を操船する船頭の人員キャパはパンク。舟と船頭の
回送が間に合わず配船が滞る事態が連日続いたのです。
トロッコ開通は、保津川下りにも想像を超える波及効果を生み
保津川の船頭人員は全く不足状態に陥りました。
一時期、学生アルバイトで凌ぐという今では考えられない応急的な対応で
乗りきるなどしていましたが、安全運航の確保という観点からも限度があり、
組合としては、至急に船頭人員の増強に着手せざる負えなくなったのです。
そこで持ち上がった案が「約400年続いた世襲制、つまり家の稼業」である
船頭の雇用形態を解体し、亀岡市民なら船頭への就職応募が可能となる
一般公募制を導入して広く募集をかけて人員増強を図ったのです。
この制度が導入されたことで、私のような縁もゆかりもない他地域
出身者でも船頭になることが可能となり、今に至っているというわけなのです。
つまり、トロッコ列車が開通しなかったら、保津川下りはそれまでの雇用制度を
解体させる必要性もないので、私のような者が入社することもないく
世襲制度が今でも現存していたは十分に考えられます。
そう考えると私たちのような「一般公募採用生」は、
いわば「トロッコ列車の申し子」といっても過言ではない存在なのです。
今、トロッコ列車が走る線路は、明治32年の京都鉄道開通のために
敷設されたもので、この鉄道が開通したことで「保津川の川舟」は
物資輸送という事業に終わりを告げることになったが、図らずしも
京都鉄道(旧国鉄山陰本線)は、京都から保津川下りへ
お客さんを運んで来る旅客鉄道としての役目も果たし
荷船から観光船へと産業移転をする要因を生み出したのです。
それから90年の歳月が流れ、今度はトロッコ列車の開通により
保津川下りは経営安定化が進み、約400年も続いた
「閉じられたコミュニティー」であった伝統の世襲制度を解体させ
「広く門戸を開いた」近代観光企業への転換を促進する作用を
起こしつつあります。
歴史とは、なんと奇妙で面白いものなのか!
有史以来の景観を今も残す保津峡で、繰り広げられた
‘産業と人’の物語。
これからも保津川下りとトロッコ列車、この二つの保津峡観光が
様々な物語を描き、繰り広げていくことを楽しみに、
トロッコ列車20周年への深い感慨を込めてお祝いを申し上げたい。
嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車が今年20周年を迎えました。
このブログをお読みいただいている方はもうご紹介するまでも
ありませんが、嵯峨野観光鉄道・トロッコ列車は平成3年度(1990)
に旧山陰線跡に開通した観光専用の鉄道のことです。
JR嵯峨嵐山駅に隣接するトロッコ嵯峨駅からトロッコ亀岡駅までの
7.3キロ間の峡間を、1時間に1往復しながら走っています。
四季折々の美しい保津峡景色を眺めながら、時速約20キロというゆっくり
した速度で走る癒し系のこの鉄道は、今では京都・嵯峨野を代表する
観光スポットとして、年間約95万人以上の観光客が訪れる
人気の観光列車に成長しました。
開通当初は、JR関係者や周囲の人々も「3年もったらいいほうだろう・・・」
と予想するほど、消極的な見方をしていましたが、長谷川一彦社長を先頭に
会社設立当初の社員のみなさまの頑張りで、今では毎年90万人を超える
観光客が訪れ、JR西日本関連企業の中でも、他の追随を許さない
優良企業となっています。
社長の長谷川さんは、その経営手腕が認められ、
政府(国土交通省)の観光カリスマにも選出されておられます。
社長から設立当時の苦労話や成功逸話を詳しく聞く機会のある私は、
操船時、トロッコ列車とすれ違うたびにこのサクセスストーリー秘話を
必ずお話しすることにしております。
「へぇ~そんな話があったのか?」
「こんな隆々としている列車なのにね~」
と皆さん、大変興味を持ってお聞き下さるので、私のトークネタ、
でも五指に入るオモシロ話しとしてランキングしています。
さて、そんな経緯のあるトロッコ列車ですが、この列車が開通は
私の人生にとっても大きく左右する出来事でもあり、実は
とても深い関係性があるのです。
トロッコ列車が開通した平成3年以降、保津峡観光は大きく姿を変えました。
嵯峨野からトロッコ列車に乗って亀岡へ入りし、亀岡からは保津川下りに
乗船して京都嵐山へ帰るコースがつくられ、このセットコースは売り出し
当初からもの凄いヒットコースとなり、静かな渓谷は一躍、賑やかな歓声が
こだまする一大観光スポットなったのです。
トロッコ列車に乗車したお客さんが大量にお越しになった保津川下りの
乗船場では連日、慢性的な混雑状態となりパニックを起こしていました。
うれしい悲鳴ではあるのですが、次から次へと途切れなくお越しなる
お客さんに、舟を操船する船頭の人員キャパはパンク。舟と船頭の
回送が間に合わず配船が滞る事態が連日続いたのです。
トロッコ開通は、保津川下りにも想像を超える波及効果を生み
保津川の船頭人員は全く不足状態に陥りました。
一時期、学生アルバイトで凌ぐという今では考えられない応急的な対応で
乗りきるなどしていましたが、安全運航の確保という観点からも限度があり、
組合としては、至急に船頭人員の増強に着手せざる負えなくなったのです。
そこで持ち上がった案が「約400年続いた世襲制、つまり家の稼業」である
船頭の雇用形態を解体し、亀岡市民なら船頭への就職応募が可能となる
一般公募制を導入して広く募集をかけて人員増強を図ったのです。
この制度が導入されたことで、私のような縁もゆかりもない他地域
出身者でも船頭になることが可能となり、今に至っているというわけなのです。
つまり、トロッコ列車が開通しなかったら、保津川下りはそれまでの雇用制度を
解体させる必要性もないので、私のような者が入社することもないく
世襲制度が今でも現存していたは十分に考えられます。
そう考えると私たちのような「一般公募採用生」は、
いわば「トロッコ列車の申し子」といっても過言ではない存在なのです。
今、トロッコ列車が走る線路は、明治32年の京都鉄道開通のために
敷設されたもので、この鉄道が開通したことで「保津川の川舟」は
物資輸送という事業に終わりを告げることになったが、図らずしも
京都鉄道(旧国鉄山陰本線)は、京都から保津川下りへ
お客さんを運んで来る旅客鉄道としての役目も果たし
荷船から観光船へと産業移転をする要因を生み出したのです。
それから90年の歳月が流れ、今度はトロッコ列車の開通により
保津川下りは経営安定化が進み、約400年も続いた
「閉じられたコミュニティー」であった伝統の世襲制度を解体させ
「広く門戸を開いた」近代観光企業への転換を促進する作用を
起こしつつあります。
歴史とは、なんと奇妙で面白いものなのか!
有史以来の景観を今も残す保津峡で、繰り広げられた
‘産業と人’の物語。
これからも保津川下りとトロッコ列車、この二つの保津峡観光が
様々な物語を描き、繰り広げていくことを楽しみに、
トロッコ列車20周年への深い感慨を込めてお祝いを申し上げたい。