今日は69回目の広島の日。広島では43年ぶりの雨だという。朝、一人で静かに黙祷。平和と幸せを祈る一日である。
今週はずっと猛暑日が続くようだ。けれど、暑い暑いと嘆いてみても始まらない。そして、いくら暑いといっても終日(ひねもす)冷房が効いている室内で座り仕事をしていれば、帰宅時には両足が浮腫んで足首がなくなり、身体が冷えて体調が悪くなるのは目に見えている。天気予報士さんによれば「日中は無理に外に出ないで」とのことだけれど・・・。
そんなわけで、相変わらず、昼は外に出てお散歩かたがたランチタイムを過ごしている。
新調したサマーシールド地の日傘を差したところで、上からの日差しは遮ることが出来ても、下からの照り返しにはなす術がない。体温と変わらない外気温でローストチキンにでもなった感じ。皮膚がチリチリと焦げて、汗がじわっと出てくる音までも聞こえそうだ。
何をそんな、と思うけれど、これが生きていて良かったと思う瞬間である。
生きているからこそ、汗をかける。汗をかいて少しでも体温を下げようと身体が頑張ってくれているのだ。
もちろん体調が悪ければ、室内で過ごすしかないけれど、まだこうしてしっかり自分の足でどこへでも歩けるわけだ。自転車にも車にも乗らないので、この太い2本の足だけが頼り。
一時、タイケルブの副作用で爪囲炎が酷かった時には、ちょっと靴が触れただけで、痛みで飛び上がるほどしんどかったけれど、今は軽減して、よほどキツい靴を履いて絞めつけたりしなければ(当然そんなことはせずに、カバさん靴のスペアを買い込んで過ごしている。)、夜寝る前に軟膏を塗っておくだけで、ノープロブレムになっている。
2本の太い足・・・と書いたところで、先日、後ろを歩いてきた夫からしみじみ「アキレス腱が太いから足首が太いのかなあ~」と言われて、なんと失礼な!と怒ったことを思い出した。確かに足も足首も太いのは認めるけれど、この足が私を支えてくれているのだから、余計なお世話である。
話がそれたが、生きていて良かった、と思える瞬間の続き。
こういう暑い日に、アスファルトの照り返しから一歩、木陰に入った時の、すーっと体感温度が変わる瞬間、生きていて良かった、と思える。
そして、木陰を歩きながらふと空を見上げると、折り重なった木々の葉の葉脈が太陽の光に照らされて、見事に透けて見えるのだ。本当に美しい。
そんな中で、蝉時雨も生きている実感を与えてくれる。
先日、乳がんの脳転移による全脳照射治療の後、副作用で耳が聞こえなくなったという方のブログに辿り着き、少し読ませて頂いた。彼女も合唱をされていた方で、4月中旬まで仕事も続けた末、5月の初めに亡くなっていたことにショックを受けた。その中の記事にヘレン・ケラーの言葉として有名な(正しくは哲学者・カントの言葉)「目が見えないことは、物と人を切り離す。耳が聞こえないことは、人と人とを切り離す。」があった。
病気の治療のためにそうしたことを引き換えにせざるを得なかったそのやるせなさを思えば、蝉時雨が五月蠅いなどとは口が裂けても言えないことだ。
ひと夏の命を精一杯鳴き続ける命の塊のような蝉たち。頑張って悔いのないように鳴いてちょうだいね!と言いたい。
と、あれこれ話が飛んでしまったけれど、とにかく暑くても汗をしっかりかけて、木陰の涼しさが感じられて、蝉の声が五月蠅いほどに聞こえること、それが夏の日のお散歩を続ける私の生きていて良かった!の瞬間なのである。
帰宅すると今月のお花・・・ではない鉢が届いていた。昨年まではミニ胡蝶蘭だったが、今年はガジュマルの木。妖精が住むという幸せを呼ぶ木・幸せを見守る木!である。
今週はずっと猛暑日が続くようだ。けれど、暑い暑いと嘆いてみても始まらない。そして、いくら暑いといっても終日(ひねもす)冷房が効いている室内で座り仕事をしていれば、帰宅時には両足が浮腫んで足首がなくなり、身体が冷えて体調が悪くなるのは目に見えている。天気予報士さんによれば「日中は無理に外に出ないで」とのことだけれど・・・。
そんなわけで、相変わらず、昼は外に出てお散歩かたがたランチタイムを過ごしている。
新調したサマーシールド地の日傘を差したところで、上からの日差しは遮ることが出来ても、下からの照り返しにはなす術がない。体温と変わらない外気温でローストチキンにでもなった感じ。皮膚がチリチリと焦げて、汗がじわっと出てくる音までも聞こえそうだ。
何をそんな、と思うけれど、これが生きていて良かったと思う瞬間である。
生きているからこそ、汗をかける。汗をかいて少しでも体温を下げようと身体が頑張ってくれているのだ。
もちろん体調が悪ければ、室内で過ごすしかないけれど、まだこうしてしっかり自分の足でどこへでも歩けるわけだ。自転車にも車にも乗らないので、この太い2本の足だけが頼り。
一時、タイケルブの副作用で爪囲炎が酷かった時には、ちょっと靴が触れただけで、痛みで飛び上がるほどしんどかったけれど、今は軽減して、よほどキツい靴を履いて絞めつけたりしなければ(当然そんなことはせずに、カバさん靴のスペアを買い込んで過ごしている。)、夜寝る前に軟膏を塗っておくだけで、ノープロブレムになっている。
2本の太い足・・・と書いたところで、先日、後ろを歩いてきた夫からしみじみ「アキレス腱が太いから足首が太いのかなあ~」と言われて、なんと失礼な!と怒ったことを思い出した。確かに足も足首も太いのは認めるけれど、この足が私を支えてくれているのだから、余計なお世話である。
話がそれたが、生きていて良かった、と思える瞬間の続き。
こういう暑い日に、アスファルトの照り返しから一歩、木陰に入った時の、すーっと体感温度が変わる瞬間、生きていて良かった、と思える。
そして、木陰を歩きながらふと空を見上げると、折り重なった木々の葉の葉脈が太陽の光に照らされて、見事に透けて見えるのだ。本当に美しい。
そんな中で、蝉時雨も生きている実感を与えてくれる。
先日、乳がんの脳転移による全脳照射治療の後、副作用で耳が聞こえなくなったという方のブログに辿り着き、少し読ませて頂いた。彼女も合唱をされていた方で、4月中旬まで仕事も続けた末、5月の初めに亡くなっていたことにショックを受けた。その中の記事にヘレン・ケラーの言葉として有名な(正しくは哲学者・カントの言葉)「目が見えないことは、物と人を切り離す。耳が聞こえないことは、人と人とを切り離す。」があった。
病気の治療のためにそうしたことを引き換えにせざるを得なかったそのやるせなさを思えば、蝉時雨が五月蠅いなどとは口が裂けても言えないことだ。
ひと夏の命を精一杯鳴き続ける命の塊のような蝉たち。頑張って悔いのないように鳴いてちょうだいね!と言いたい。
と、あれこれ話が飛んでしまったけれど、とにかく暑くても汗をしっかりかけて、木陰の涼しさが感じられて、蝉の声が五月蠅いほどに聞こえること、それが夏の日のお散歩を続ける私の生きていて良かった!の瞬間なのである。
帰宅すると今月のお花・・・ではない鉢が届いていた。昨年まではミニ胡蝶蘭だったが、今年はガジュマルの木。妖精が住むという幸せを呼ぶ木・幸せを見守る木!である。