今日はレントゲン撮影後、診察室へ入った。
前回の採血結果で、先月横ばいだったマーカーがまたじわりと上がっていた。レントゲンでは両肺各1箇所の影が少し濃くなっている様子。それでもかつてのように全体にぽつぽつと広がっている、というわけではないそうだ。マーカー上昇はこの2つの影の影響だろう、とのこと。「普通(マーカーの上昇は)いきなり1.5倍とか2倍になるのだが、1割ほどの増だから、やはりハーセプチンの効果ですね。来月の結果を見て、また上がっているようなら薬を換えてみようか、というところです。今すぐ薬を換えよう、というほどの踏ん切りがつかない。換えてみて効く保障がないし、換えてもっと悪くなったら・・・という心配もある。」と先生はおっしゃる。
もちろんマーカーがはっきりと上昇して、レントゲン画像上も明白に違いが出るというなら迷いようがないのだが。「ホルモン剤を一度変えると、また元に戻すということはできないのですか。」と質問したところ、「2ヶ月程度で戻ることはありうるが、あまり良くないかなという程度なら変えない。もっと悪くなったら別の話になるが・・・。」とのこと。
「一緒に悩んでいただいてありがとうございます。」とお話してきた。また、ちょっと気になっていた傷口付近のほくろ(治療前にはなかった)を診て頂いたが、「(しこりがふれないので)皮膚への転移ではなくほくろでしょう。」ということで安心した。処置室に移動して、検温、血圧測定後、ハーセプチンの点滴は順調に終了。
今日は3冊読めた。
1冊目は日垣隆さんの「知的ストレッチ入門 すいすい読める 書ける アイデアが出る」(新潮文庫)。「インプットは必ずアウトプットを前提にする、おのれを知る」などの基本3原則もさることながら、最近どんどん増殖している自宅の本棚を思いつつ、書籍の収納法等が筆者の体験に基づいたもので説得力があり、するすると読めて実に得をした気分。とりあえず仕事でなく趣味で読書をし、こうしてブログを書いて幸せでいる私にはちょっと高度すぎるけれど。
2冊目は阿刀田高さんの「短編小説より愛をこめて」(新潮文庫)。途切れ途切れの時間にも読める短編小説は私も大好きだが、短編のスペシャリストによるエッセイ集。ギリシア神話の話も面白く、以前に観た映画「トロイ」を思い出した。
3冊目は橋本治さんの「勉強ができなくても恥ずかしくない①どうしよう・・・の巻」(ちくまプリマー新書)。学校になじめず、友達もいない、勉強もだめなケンタ君のお話。教育とは何か、勉強とは何かを考える小説の第1部という裏表紙のとおり、この後のケンタ君がどうなっていくのか、楽しみだ。
氷河期といわれたバブルがはじけた後にも増して、就職活動が大変厳しくなっている。大学生でも内定率は8割だという。残念ながら今や大学のネームバリューだけでは就職には結びつかない。一緒に働く方としては出身大学と働くわけではなく、本人と仕事をするのだから、当然といえば当然であるが。
SEをしている甥の会社に3月になってから東大院卒生が(来年の4月でなく、この)4月から採用してほしい、と訪れたという。幹部は「ついに我が社にも東大院卒が来るようになった!」と初の人材に舞い上がって採用を決めたようだが、甥はきわめて冷静で、「『それまで決まらなかったというのは、そういうことだから、採用はやめた方がいい』と言ったのに、結局自分のところに配属になって気が重い・・・」と言っていた。
今や就職活動でも親たちの出番が多くなっている、という報道も目にする。もちろん、自分たちが就職した頃の価値観で間違った物言いや判断をしたり、うまくいかずに落ち込んでいる子どもに全く無関心でフォローもしないでいることはまずいだろう。
私の頃は男女雇用均等法施行1年前で、四大卒の女性は、極端な話、企業もどう使っていいかわからない、という状況だった。外資系や民間企業の総合職で太く短く働くことはできたかもしれないが、結婚しても出産しても、細く長くではあってもとにかくずっと働く、という道は結局公務員しかなかったのだ。
世の中の状況がうんと変わっているということは、息子の中学受験の時にも十分経験した。自分の頃の私立学校の偏差値など全くあてにならない。新興の進学校が次々に頭角を現している。もちろん昔からのいわゆる御三家などは別格であるが。
だから当然に企業も同じことだろう。それでも・・・と思う。就職するのは本人で、親たちが説明会について行くこと、はては先回りして説明会にまで出席することはどうなのだろう。親の目にかなった会社に就職すれば、本人はその先安泰といえるのだろうか。先日もテレビで「内定塾」やら「就活合宿」やらに高額を投資している学生たちの様子を写して「就職にも塾」という番組をやっていて、思わず唸ってしまった。
自分を見つめ直すこと、自分が何をやりたいのか、自分と向き合って問い詰めること、これも人の手を借りないと出来なくなっているのか。マニュアル通りの答えをいくらもらっても、採用サイドは退屈なだけだろう。
中学受験は私自身の意思もあったから関わらざるを得なかったけれど、息子はよほどの失態がなければ(学校からレッドカードが出されなければ)高校受験は経験しないですむことになっているので、次なる受験は大学受験。ここに至ってはもう自分の意思で自分の力で切り開いていってもらわないと困ると思っている。
中学受験では、大学付属という道は選択肢として1校も選ばなかった。せっかく勉強したのだから、また頑張らせなくてもエスカレーターが安心でいいじゃない、という意見はもっともだ。だが、12歳で、親が大学まで選択してしまうことに私は違和感を覚えた。入学後に高校・大学を受験し直すということも強い意志があれば全く不可能ではないだろうけれど、やはり人間、どうしても楽な方に流れるだろうし、他の皆が同じ方向に向かっている中であえて違う方向を目指す、というのは精神的にも肉体的にもよほどしっかりしていないと厳しいということはたやすく想像ができたので。
もちろん本人が今の学校に通い出した時に「自分の意思で高校は別の学校へ、というリベンジもありだよ。」と言ってはみた。しかし、本人が行きたかった学校は高校からの募集がないので、再度挑戦することはできないし、不合格を突きつけられて悔しかったという気持ちはもうすっかりどこかへ行ってしまって、すっかり現状に甘んじてしまい、実にまったりのんびりだらだらと(と看過してもいられない状況になっていたのは先日も書いたとおりだが)暮らしている。
大学受験はきちんと自分の意思でやってほしいし、わが身を振り返ると受験勉強はやはり経験すべき、と思う。一生のうちに一度は自分の意思で目標を定めてストイックに勉強することは、どうしても必要な経験ではないか。そして繰り返しになるが、大学受験のときはもうそれほど関わらなくても大丈夫、のつもりでもいた。
ただ、今はなかなかそうも行かない様子だ。就職まで親がかり、なのにどうして大学受験を本人の意思に任せていられるだろう、といったところか。
あっという間に中3になった息子の大学受験まであと4年弱、運良くストレートに大学に入って、その後これまた運良く4年で卒業するにしても、今の就職活動は3年生からスタートだから、その時まで最短であと7年弱、元気でやいやいと口を挟んでいられるかどうかは「神のみぞ知る」なので、どうも焦って目の黒いうち、口を出せるうちは、と「部活もなくごろごろしているなら、せめて本を読めば・・・、せめてスポーツクラブで汗を流せば・・・、」と干渉してしまうことに反省しきりの毎日である。
病院のロビーには五月人形が飾られていた。「希望」と書かれた色紙とともに。
病院を訪れる患者さんやその家族にとって「希望」は本当に大切な言葉だ。たとえ完治しなくとも、共存していく時間をより長く、という希望をもってこれからも過ごしていこう、と思う。
我が家では息子の五月人形も鯉のぼりもここ数年飾ってあげていないことをふと思い出して、反省した。これから何年飾ってあげることができるかわからないのに・・・今年は飾ってあげなくては、と思った。
前回の採血結果で、先月横ばいだったマーカーがまたじわりと上がっていた。レントゲンでは両肺各1箇所の影が少し濃くなっている様子。それでもかつてのように全体にぽつぽつと広がっている、というわけではないそうだ。マーカー上昇はこの2つの影の影響だろう、とのこと。「普通(マーカーの上昇は)いきなり1.5倍とか2倍になるのだが、1割ほどの増だから、やはりハーセプチンの効果ですね。来月の結果を見て、また上がっているようなら薬を換えてみようか、というところです。今すぐ薬を換えよう、というほどの踏ん切りがつかない。換えてみて効く保障がないし、換えてもっと悪くなったら・・・という心配もある。」と先生はおっしゃる。
もちろんマーカーがはっきりと上昇して、レントゲン画像上も明白に違いが出るというなら迷いようがないのだが。「ホルモン剤を一度変えると、また元に戻すということはできないのですか。」と質問したところ、「2ヶ月程度で戻ることはありうるが、あまり良くないかなという程度なら変えない。もっと悪くなったら別の話になるが・・・。」とのこと。
「一緒に悩んでいただいてありがとうございます。」とお話してきた。また、ちょっと気になっていた傷口付近のほくろ(治療前にはなかった)を診て頂いたが、「(しこりがふれないので)皮膚への転移ではなくほくろでしょう。」ということで安心した。処置室に移動して、検温、血圧測定後、ハーセプチンの点滴は順調に終了。
今日は3冊読めた。
1冊目は日垣隆さんの「知的ストレッチ入門 すいすい読める 書ける アイデアが出る」(新潮文庫)。「インプットは必ずアウトプットを前提にする、おのれを知る」などの基本3原則もさることながら、最近どんどん増殖している自宅の本棚を思いつつ、書籍の収納法等が筆者の体験に基づいたもので説得力があり、するすると読めて実に得をした気分。とりあえず仕事でなく趣味で読書をし、こうしてブログを書いて幸せでいる私にはちょっと高度すぎるけれど。
2冊目は阿刀田高さんの「短編小説より愛をこめて」(新潮文庫)。途切れ途切れの時間にも読める短編小説は私も大好きだが、短編のスペシャリストによるエッセイ集。ギリシア神話の話も面白く、以前に観た映画「トロイ」を思い出した。
3冊目は橋本治さんの「勉強ができなくても恥ずかしくない①どうしよう・・・の巻」(ちくまプリマー新書)。学校になじめず、友達もいない、勉強もだめなケンタ君のお話。教育とは何か、勉強とは何かを考える小説の第1部という裏表紙のとおり、この後のケンタ君がどうなっていくのか、楽しみだ。
氷河期といわれたバブルがはじけた後にも増して、就職活動が大変厳しくなっている。大学生でも内定率は8割だという。残念ながら今や大学のネームバリューだけでは就職には結びつかない。一緒に働く方としては出身大学と働くわけではなく、本人と仕事をするのだから、当然といえば当然であるが。
SEをしている甥の会社に3月になってから東大院卒生が(来年の4月でなく、この)4月から採用してほしい、と訪れたという。幹部は「ついに我が社にも東大院卒が来るようになった!」と初の人材に舞い上がって採用を決めたようだが、甥はきわめて冷静で、「『それまで決まらなかったというのは、そういうことだから、採用はやめた方がいい』と言ったのに、結局自分のところに配属になって気が重い・・・」と言っていた。
今や就職活動でも親たちの出番が多くなっている、という報道も目にする。もちろん、自分たちが就職した頃の価値観で間違った物言いや判断をしたり、うまくいかずに落ち込んでいる子どもに全く無関心でフォローもしないでいることはまずいだろう。
私の頃は男女雇用均等法施行1年前で、四大卒の女性は、極端な話、企業もどう使っていいかわからない、という状況だった。外資系や民間企業の総合職で太く短く働くことはできたかもしれないが、結婚しても出産しても、細く長くではあってもとにかくずっと働く、という道は結局公務員しかなかったのだ。
世の中の状況がうんと変わっているということは、息子の中学受験の時にも十分経験した。自分の頃の私立学校の偏差値など全くあてにならない。新興の進学校が次々に頭角を現している。もちろん昔からのいわゆる御三家などは別格であるが。
だから当然に企業も同じことだろう。それでも・・・と思う。就職するのは本人で、親たちが説明会について行くこと、はては先回りして説明会にまで出席することはどうなのだろう。親の目にかなった会社に就職すれば、本人はその先安泰といえるのだろうか。先日もテレビで「内定塾」やら「就活合宿」やらに高額を投資している学生たちの様子を写して「就職にも塾」という番組をやっていて、思わず唸ってしまった。
自分を見つめ直すこと、自分が何をやりたいのか、自分と向き合って問い詰めること、これも人の手を借りないと出来なくなっているのか。マニュアル通りの答えをいくらもらっても、採用サイドは退屈なだけだろう。
中学受験は私自身の意思もあったから関わらざるを得なかったけれど、息子はよほどの失態がなければ(学校からレッドカードが出されなければ)高校受験は経験しないですむことになっているので、次なる受験は大学受験。ここに至ってはもう自分の意思で自分の力で切り開いていってもらわないと困ると思っている。
中学受験では、大学付属という道は選択肢として1校も選ばなかった。せっかく勉強したのだから、また頑張らせなくてもエスカレーターが安心でいいじゃない、という意見はもっともだ。だが、12歳で、親が大学まで選択してしまうことに私は違和感を覚えた。入学後に高校・大学を受験し直すということも強い意志があれば全く不可能ではないだろうけれど、やはり人間、どうしても楽な方に流れるだろうし、他の皆が同じ方向に向かっている中であえて違う方向を目指す、というのは精神的にも肉体的にもよほどしっかりしていないと厳しいということはたやすく想像ができたので。
もちろん本人が今の学校に通い出した時に「自分の意思で高校は別の学校へ、というリベンジもありだよ。」と言ってはみた。しかし、本人が行きたかった学校は高校からの募集がないので、再度挑戦することはできないし、不合格を突きつけられて悔しかったという気持ちはもうすっかりどこかへ行ってしまって、すっかり現状に甘んじてしまい、実にまったりのんびりだらだらと(と看過してもいられない状況になっていたのは先日も書いたとおりだが)暮らしている。
大学受験はきちんと自分の意思でやってほしいし、わが身を振り返ると受験勉強はやはり経験すべき、と思う。一生のうちに一度は自分の意思で目標を定めてストイックに勉強することは、どうしても必要な経験ではないか。そして繰り返しになるが、大学受験のときはもうそれほど関わらなくても大丈夫、のつもりでもいた。
ただ、今はなかなかそうも行かない様子だ。就職まで親がかり、なのにどうして大学受験を本人の意思に任せていられるだろう、といったところか。
あっという間に中3になった息子の大学受験まであと4年弱、運良くストレートに大学に入って、その後これまた運良く4年で卒業するにしても、今の就職活動は3年生からスタートだから、その時まで最短であと7年弱、元気でやいやいと口を挟んでいられるかどうかは「神のみぞ知る」なので、どうも焦って目の黒いうち、口を出せるうちは、と「部活もなくごろごろしているなら、せめて本を読めば・・・、せめてスポーツクラブで汗を流せば・・・、」と干渉してしまうことに反省しきりの毎日である。
病院のロビーには五月人形が飾られていた。「希望」と書かれた色紙とともに。
病院を訪れる患者さんやその家族にとって「希望」は本当に大切な言葉だ。たとえ完治しなくとも、共存していく時間をより長く、という希望をもってこれからも過ごしていこう、と思う。
我が家では息子の五月人形も鯉のぼりもここ数年飾ってあげていないことをふと思い出して、反省した。これから何年飾ってあげることができるかわからないのに・・・今年は飾ってあげなくては、と思った。