新年度初日、辞令交付後の転入者やら新規採用者やらでざわざわした中、昼過ぎにメールで回章が送られてきた。なんとなく胸騒ぎがして、所属を見たとたんドキドキして、その直後に確信した。
「O先生はかねてより病気療養中のところ、容体急変のため3月28日にご逝去」とあった。享年53歳。いかにも若すぎるではないか。お二人暮らしだったお母様を残して、さぞ、無念でいらしただろうと思うと息苦しくなる。
先生と初めてお会いしたのはもう16年近く前。
私が欧州研修の準備をしている時に、British Councilのコーディネーターを介して紹介された。(イギリス人のコーディネーター氏は数年前に退職されたが、一度職場の大学に私を訪ねてくださったこともあり、今でもクリスマスカードのやりとりをしている。昨年の年賀状で再発・転移を知らせたところ、驚いて電話をくださった一人だ。)当時、先生は今の私の勤め先である大学の教員ではなかったし、私も別の部局にいたので、まさかその何年か後に同じ勤め先になるとはその頃は思いもよらなかった。
研修先のロンドンでは、先生がいつも定宿にしておられる地の利の良いホテルを教えて頂き、そこで1ヶ月生活した。途中で先生も出張に来られ、数日朝食をご一緒させて頂いた。「ずっと毎日同じ朝ごはんで飽きるでしょう?」とトーストに塗る珍しいペーストなど持ってきて下さって、とてもお世話になった。私といえば毎日慣れない外国生活に四苦八苦しつつ、食事といえば一人でホテルの部屋でファストフード等で簡単に済ませていたところだった。
先生はそんな私を思いやり、短い出張期間の貴重な1日を私に割いてくださった。「母がここのセーターのお土産をいつも楽しみにしているのよ。」とホテル近くのカシミアセーターの専門店に連れて行ってくださり、私も、高価ではあったが思い切って夫と自分のセーターを買った。今でも2人してとても大事に着ている。その日は確か夕食も先生のお勧めのレストランでご一緒したと記憶している。
とてもふくよかで明るくてエネルギッシュで、ゴムまりのような方だった。
大学では、前の私の事務室と先生の研究室は建物が近かったので、その頃は通りかかると立ち寄ってくださったり、声をかけたりしてくださっていた。まさに元気印の方だった。
5年前、私の初発の病気休暇中、まもなく職場復帰という時に、一度最寄の駅前でばったりお目にかかったことがあり、「実は今・・・」とお話したことがあった。その後、私は卵巣のう腫で病気休暇をとったり、部署が変わったりということで、しばらくご無沙汰していた。
昨年11月の末、職場のメールに突然ご連絡があった。私も異動を繰り返し、休職しということで、先生は私がどこにいるのかご存知なかったのだが、ようやく別の事務担当者から私のアドレスを突き止めてメールをくださったとのことだった。
そこで初めて先生が、大腸がんの手術を受け、その部分は摘出したけれど、転移が見つかり、今度は手術ができずに抗がん剤等で治療をされておられることを知った。すぐに私の近況をお伝えし、ブログを始めました、とお返事を出した。先生から「ブログに元気をもらいました。一度ゆっくりお昼でもしましょう。」とお誘い頂いたので、「わざわざ大学まで出て来て頂かなくとも(先生のご自宅と大学は東京横断くらい離れているのだ。)、私が都心に出張の日があるので、帰り道にお目にかかるのではいかがですか。」と持ちかけたところ、久しぶりの再会が実現した。
待ち合わせの場所は先生が指定されたマクロビオティックのレストラン。すっかりベジタリアンになった、とおっしゃっていた。ただ、あまりに痩せておられ、一回りも二回りも小さくなっているようにお見受けしたので、とても驚いた。食生活を改善して、かなり厳しい玄米有機野菜の食事療法をしているとおっしゃっていた。その日は「急に調子が悪くて、食欲があまりないの。」とメインはほとんど手をつけられず、それでも私のために無理をなさってか、ケーキとハーブティだけはとても美味しそうに召し上がった。帰りは「大学で外せないゼミがあるから・・・」と一緒に大学まで帰ってきた。
レストランを出る時には顔をしかめて「痛い・・・」とかなり辛そうで、私が持っていたロキソニン(痛み止め)をその場で飲み、あと1回分を念のため、とお渡しした。電車は昼にもかかわらずあいにく混んでおり、ようやく途中で優先席が空いたので座って頂いた。ずっと下を向いて目をつぶって痛みに耐えていらした。「そんなに調子が悪いのなら、私との約束などキャンセルして頂いて全くかまわなかったのに・・・。」と言ったのだが、「本当に急になのよ、ずっとこんなことはなかったから。でもだいぶ薬が効いてきたから大丈夫、またね。」と大学前でお別れした。
それがお会いした最後になってしまった。
メールではその日のお礼のやりとりもしたし、自宅にも「謹賀新年」というメールを頂いていた。「いろいろ大変な状況ですが、負けないで前向きにこの一年生きていこうと思います。一日一日を大事にと思うのですが、また時間が過ぎてしまい、人間の非力さも感じながらの毎日ですが、それでも頑張ります。」という力強い抱負であった。
2月にこちらから「その後お変わりありませんか」とメールでご連絡したが、お返事がなかった。(もう授業がないから、大学にはいらっしゃっていないんだ・・・)と思いたかったので、あえてご自宅のアドレスにまではご連絡しなかった。
それが最後の連絡になってしまった。
(先生、もう痛まないですよ、どうか安らかに・・・)と思いつつ、やはりとてもショックである。せめて最期は痛みなく逝かれたことを祈りたい。本当に痛みがあるとどんなに頑張っても気持ちが前向きになれないのだ。
やはり気になって、後から所属に確認したところ、既に近親者での家族葬が済んでいるということだった。あの後ずっと調子は悪かったようだが、長くお休みされていたわけではなく、調子のいい時には大学にもお姿を見せていたという。賑やかなことがお好きだったので、しんみり・・・、ではなく思いっきり派手に「お別れの会」を開くことを考えている、と伺った。
合掌。
「O先生はかねてより病気療養中のところ、容体急変のため3月28日にご逝去」とあった。享年53歳。いかにも若すぎるではないか。お二人暮らしだったお母様を残して、さぞ、無念でいらしただろうと思うと息苦しくなる。
先生と初めてお会いしたのはもう16年近く前。
私が欧州研修の準備をしている時に、British Councilのコーディネーターを介して紹介された。(イギリス人のコーディネーター氏は数年前に退職されたが、一度職場の大学に私を訪ねてくださったこともあり、今でもクリスマスカードのやりとりをしている。昨年の年賀状で再発・転移を知らせたところ、驚いて電話をくださった一人だ。)当時、先生は今の私の勤め先である大学の教員ではなかったし、私も別の部局にいたので、まさかその何年か後に同じ勤め先になるとはその頃は思いもよらなかった。
研修先のロンドンでは、先生がいつも定宿にしておられる地の利の良いホテルを教えて頂き、そこで1ヶ月生活した。途中で先生も出張に来られ、数日朝食をご一緒させて頂いた。「ずっと毎日同じ朝ごはんで飽きるでしょう?」とトーストに塗る珍しいペーストなど持ってきて下さって、とてもお世話になった。私といえば毎日慣れない外国生活に四苦八苦しつつ、食事といえば一人でホテルの部屋でファストフード等で簡単に済ませていたところだった。
先生はそんな私を思いやり、短い出張期間の貴重な1日を私に割いてくださった。「母がここのセーターのお土産をいつも楽しみにしているのよ。」とホテル近くのカシミアセーターの専門店に連れて行ってくださり、私も、高価ではあったが思い切って夫と自分のセーターを買った。今でも2人してとても大事に着ている。その日は確か夕食も先生のお勧めのレストランでご一緒したと記憶している。
とてもふくよかで明るくてエネルギッシュで、ゴムまりのような方だった。
大学では、前の私の事務室と先生の研究室は建物が近かったので、その頃は通りかかると立ち寄ってくださったり、声をかけたりしてくださっていた。まさに元気印の方だった。
5年前、私の初発の病気休暇中、まもなく職場復帰という時に、一度最寄の駅前でばったりお目にかかったことがあり、「実は今・・・」とお話したことがあった。その後、私は卵巣のう腫で病気休暇をとったり、部署が変わったりということで、しばらくご無沙汰していた。
昨年11月の末、職場のメールに突然ご連絡があった。私も異動を繰り返し、休職しということで、先生は私がどこにいるのかご存知なかったのだが、ようやく別の事務担当者から私のアドレスを突き止めてメールをくださったとのことだった。
そこで初めて先生が、大腸がんの手術を受け、その部分は摘出したけれど、転移が見つかり、今度は手術ができずに抗がん剤等で治療をされておられることを知った。すぐに私の近況をお伝えし、ブログを始めました、とお返事を出した。先生から「ブログに元気をもらいました。一度ゆっくりお昼でもしましょう。」とお誘い頂いたので、「わざわざ大学まで出て来て頂かなくとも(先生のご自宅と大学は東京横断くらい離れているのだ。)、私が都心に出張の日があるので、帰り道にお目にかかるのではいかがですか。」と持ちかけたところ、久しぶりの再会が実現した。
待ち合わせの場所は先生が指定されたマクロビオティックのレストラン。すっかりベジタリアンになった、とおっしゃっていた。ただ、あまりに痩せておられ、一回りも二回りも小さくなっているようにお見受けしたので、とても驚いた。食生活を改善して、かなり厳しい玄米有機野菜の食事療法をしているとおっしゃっていた。その日は「急に調子が悪くて、食欲があまりないの。」とメインはほとんど手をつけられず、それでも私のために無理をなさってか、ケーキとハーブティだけはとても美味しそうに召し上がった。帰りは「大学で外せないゼミがあるから・・・」と一緒に大学まで帰ってきた。
レストランを出る時には顔をしかめて「痛い・・・」とかなり辛そうで、私が持っていたロキソニン(痛み止め)をその場で飲み、あと1回分を念のため、とお渡しした。電車は昼にもかかわらずあいにく混んでおり、ようやく途中で優先席が空いたので座って頂いた。ずっと下を向いて目をつぶって痛みに耐えていらした。「そんなに調子が悪いのなら、私との約束などキャンセルして頂いて全くかまわなかったのに・・・。」と言ったのだが、「本当に急になのよ、ずっとこんなことはなかったから。でもだいぶ薬が効いてきたから大丈夫、またね。」と大学前でお別れした。
それがお会いした最後になってしまった。
メールではその日のお礼のやりとりもしたし、自宅にも「謹賀新年」というメールを頂いていた。「いろいろ大変な状況ですが、負けないで前向きにこの一年生きていこうと思います。一日一日を大事にと思うのですが、また時間が過ぎてしまい、人間の非力さも感じながらの毎日ですが、それでも頑張ります。」という力強い抱負であった。
2月にこちらから「その後お変わりありませんか」とメールでご連絡したが、お返事がなかった。(もう授業がないから、大学にはいらっしゃっていないんだ・・・)と思いたかったので、あえてご自宅のアドレスにまではご連絡しなかった。
それが最後の連絡になってしまった。
(先生、もう痛まないですよ、どうか安らかに・・・)と思いつつ、やはりとてもショックである。せめて最期は痛みなく逝かれたことを祈りたい。本当に痛みがあるとどんなに頑張っても気持ちが前向きになれないのだ。
やはり気になって、後から所属に確認したところ、既に近親者での家族葬が済んでいるということだった。あの後ずっと調子は悪かったようだが、長くお休みされていたわけではなく、調子のいい時には大学にもお姿を見せていたという。賑やかなことがお好きだったので、しんみり・・・、ではなく思いっきり派手に「お別れの会」を開くことを考えている、と伺った。
合掌。