ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.4.17 ゆとり教育・・・その後

2010-04-17 12:08:49 | 日記
 今朝起きると外はあたり一面うっすらと雪。
 4月17日に東京に雪が降ったのは実に昭和44年のこと以来だそうだ。ちょうどアポロが月面着陸をした年とのこと。本当に寒い。いまだに真冬用のダウンコートがしまえない。1ヶ月予報でも5月まで気温が低かったり、変動が激しいようだ。体調管理をしっかりしなくては、と思う。
 ちょうど息子が産まれた14年前も4月のお天気が悪く、低温続きだったと記憶している。毎朝なかなか厚手のコートが脱げず、息子はおくるみでしっかりくるんでベビーカーに乗せて登園した。この春は1996年以来の寒い春、と聞いていたら、いきなり41年ぶりの雪になった。

 さて、小学校1年生から完全な「ゆとり教育」で育った子どもたちが中学3年になった。息子もその一人。

 公立中に進んだ小学校の同級生たちが、駅前の塾で大勢姿を見せるようになっている。先日もぺこりとお辞儀をされて、(何年か同じクラスだった男の子だ・・・)と気づくのに時間がかかった。あまりにおじさん(失礼!)風になっていて驚いた。いよいよ同級生は受験生モード突入なのだろう。

 先日、和田秀樹さんの「『ゆとり教育』から子どもをどう守るか」(講談社+α文庫)を読んだ。2002年ゆとり教育開始直前に初版が出たものだ。“情報錯綜の中、必須の智慧を網羅した好著”ということでゆとり教育に警鐘を鳴らす内容になっている。
 実際、既に来年度からはカリキュラムが変更になり、教科書も厚くなることが決まっているのだから、小学校、中学校とまるまる9年間の義務教育をすべて「ゆとり教育」で過ごさざるを得なかった息子の同級生たちのこの9年間は一体なんだったのか、と思わざるを得ない。

 これまで特に気にしていなかったけれど、私が子どもだった頃はカリキュラムが一番きつかった時代だそうだ。
 その頃は学校の勉強とはそういうものだと思っていた。円周率はやはり3.14であって、3では円にならないだろう。台形の面積も覚える必要がない、と言われてしまえばそうかもしれないけれど、覚えるものだと思って疑いもせず覚えた事柄は、不思議と今でも忘れていないものだ。頭が柔らかいうちに詰め込むことはある程度必要だと思う。
 今、日々脳細胞が死んでいくような齢になっていきなり2次方程式の解の公式を覚えろ、と言われれば頭を抱えるかもしれないけれど、当時はそうでもなかった。確か当時の数学の先生に「今がこの式を難なく覚えられる最後の頭の状態だ。」と言われたのをとてもリアルに覚えている。

 思い返せば、息子が小学校に入学して教科書を持って帰ってきたときは驚いた。
 カラフルで、本当にパンフレットと見まがうような薄い教科書。練習問題などは一体どこに書いてあるのだろう、というものだった。1,2年のうちは理科も社会もなく生活科。あとは総合学習だった。先生方もあれこれ実に苦労しておられたと思う。

 例えば国語。わずか数ページの短い物語を延々何度も何度も読み込むことに、飽きっぽい息子は辟易していた。別に読書が好きで図書館がお友達という子でもなかったが、「もうわかっていることを何度も何度もしつこく聞き直されるんだ。」と。丁寧といえば実に丁寧だったのだろうけれど、それで飽きてしまって実際に授業中が上の空では、どんどん吸い込むスポンジ状態の頭の子どもたちには、いかにももったいない。やはりもう少し中味があったほうが良かったのだろうと思う。
 教壇に立つ側としては、集団の授業においてどの子どもたちに焦点をあてて授業を進めるのかは、本当に難しいことだと思う。

 ゆとり教育云々はさておき、息子の小学校時代を振り返ってみると、それなりにいろいろあった。
 小学校3年生の時、息子のクラスは授業崩壊になって担任の先生が体を壊された。先生はちょうど4月に転勤されてきたばかりだったが、前の小学校から惜しまれてこちらにいらしたという評判の方だった。確かにとても素敵な方で、5月の家庭訪問ではすっかり意気投合してしまい、「この先生で良かった!」と思ったほどだ。
 ところが、その先生が当初張り切って出されていた学級通信類が1、2回出たきりで、後が続かなくなってしまった。今になって思えば、とてもそんな精神状況ではなくなってしまっていたのだ。
 2人の男の子がじっと座っていられずに教室から自由に出て行ったり、校長室へ行って好きなことをしたり、授業中に大声で関係ないことを言って授業を遮ったりしていたようだ。担任を持たない遊軍の先生が担任補佐として、じっとしていられない子ども2人に付きっ切りになった。時にはそれでも足りず教頭先生も張り付いた。
 クラス替えがなかったので、4年生になってもその状況は続いた。すでにこのクラスは問題あり、ということで、高学年のクラス運営を得意とする男性のベテラン教諭が鳴り物入りで担任になった。それでも後半は体調を崩してお休みされてしまい、緊急措置で教頭先生がクラス担任を代行された。「もうあの子(たち)とは一緒にさせないで!」という強い声が保護者会で聞かれた。その子たちのお母さんは保護者会に出てこられなくなった。

 5年生になって息子は相変わらずその子たちと同じクラスになった。4年生の時から徐々に別の特別学級に通い出していた1人の子は、完全にそちらの学級に行き始めた。1人の子は残ったけれど、5年生の担任の先生との相性が良かったのか、その先生の言うことだけはちゃんと聞くようになって、いつのまにか嘘のように落ち着いた。
 それでも3,4年生のとき学級崩壊を経験した子どもたちのブランクをは実に大きかったようで、「残念ながら学校での勉強しかしていなかったお子さんとそうでないお子さんは取り返しのつかないくらいの学力差がついています。」と5年生になってからの保護者会で担任からお話があった。

 実際に4年生の時の授業参観で教室での状況を初めて目の当たりにして、(3年生の時には忙しさにかまけて授業参観にも行けず、学年末の頃は初発治療中でもあり)詳しいことは何も知らず、とりあえず息子が楽しく学校に通っているようなので安心、と思っていたおめでたい私は驚き、これは冗談でなく中学にこのまま上げたら大変なことになる、と思った。
 ゆとり教育が信用ならず勉強が心配で・・・、というよりも、3年生で学童クラブが終わってしまうので、放課後の受け皿として軽い気持ちで塾に行かせ始めた(本人も塾の授業が新鮮でテンポ良くとても面白かったようだし、テストの賞品に惹かれて進んで通っていた)けれど、最初はそれほど真剣に中学受験を考えていたわけではなかった。それが、ここでちょっと本気モードにならざるを得なかった。

 とにかく中学3年生になった。
 息子は中高一貫校には通っているが、来年の2月には外部受験生と同じ問題で受験をするシステムになっている、という。つまりもう受験まで10ヶ月を切っているというのに、本人はいたって他人事の様子だ。

 精神年齢がとても幼なかった息子にとって、12歳の試練はとても厳しかったけれど、今回は既に受験というものを一度経験しているわけだし、それなりに大人にもなっている(はず)だし、中学受験と違ってどの子もこれから先、上の学校に進もうとしたら避けて通れない受験なのだから、もう少し自覚をもって、今の自分はこのままでいいのか、自分はこれからどうしたいのか、そのためには今何をすべきなのか、を少し真面目に考えて欲しい。そして、どこかでやる気のスイッチが入ってくれればいいのに・・・と思う。

 今日明日と久しぶりにどこにも出かけない休日だ。外は寒いし、お天気もあまり良くない。無理せず最低限の家事の後、ゆったりのんびり読書三昧の予定である。
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