ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.4.20 旅行好き、その後

2010-04-20 20:26:35 | 日記
 アイスランドの火山噴火による火山灰の影響で欧州の数多くの空港が閉鎖され、依然として各路線の運航が出来ないでいる。噴火から5日目になってもいまだ空港で足止めを食っている人が大勢だ。さぞや疲労がたまり焦りがこみ上げていることだろう。それでも無理をして飛んで大惨事・・・となってはとんでもないから、やはり安全第一でゴーサインが出るまで待つしかないだろう。
 いざ海外で航空機の遅延なり欠航に遭遇すると、実にストレスフルだ。
実際、私も機体の不良で一度離陸してから空港に引き返し、1泊したことがあったし、暴風雨のため、延々と空港で過ごしたこともあった。霧のため予定外の空港に着陸して半日かけてバスで目的地まで行ったこともあった。特に短い日程での旅行や仕事は、その目的自体を果たすことがまったく不可能になってしまう。

 これまで趣味は「旅行、読書」と書いてきた。旅行が好きで、これまで夏休みや年末に家族でいわゆる安近短の海外旅行を続けていた。息子も0歳からパスポートを所持し、今では3冊目になる。

 最後に行った海外旅行からそろそろ4年が経ってしまう。息子が小5の夏休みに実家の両親も連れてオーストラリアのゴールドコーストの高層コンドミニアムに泊まった。その旅行以降、中学に合格するまではお預け、としていたけれど、実際は入試直前に私の再発・転移が判明し、第一志望校受験当日に転院して治療開始。海外旅行に行くどころではなくなった。
 さらに息子の鉄道研究会入部とともに「旅はなんと言っても飛行機より電車!」と電車のプライオリティが実に高くなってしまったので、飛行機に乗ること自体とても珍しくなってしまった。しかも彼の主催(?)する鉄道旅行は朝から晩までひたすら電車に乗りっぱなしなので、今の私はとても体力的に付き合えない。中学入学以来長期の旅行といえば、もっぱら夫と息子の“鉄道・弥次喜多道中”である。

 再発治療の開始以来、特に一昨年7月からハーセプチン投与開始とともに通院が毎週になって以来、旅行らしい旅行には行っていない。一番最近の長い旅といえば、一昨年、息子の秋休みに3泊で九州のハウステンボスに行ったのが最後になる。その翌々月からは今思い出しても辛いタキソテールの上乗せ治療が始まった。
 それ以外はせいぜい1泊の温泉旅行か日帰りバス旅行か。旅行好きと名乗るにしては淋しい限りである。

 それでもちょっと体調が落ち着いているなら、近場でいいから気分転換で海外旅行に行ければ、と思っていた。
 パスポートももうすぐ切れてしまいそう。申請に行くことから始めると、さらに敷居が高くなってしまう。夫と3泊で台湾ならどうか、2泊で韓国で美味しいものを食べるのはどうか、などと話していた。

 しかし、今回の火山灰による空港閉鎖、運航中止を見て「やはり、海外旅行は厳しいな・・・」と思った。やはり自然にはどうしたってかなわない。人間はもう平伏すしかない。
 いったん海外に出て、やむなく帰って来られない状況に巻き込まれたら、週1の治療が続けられない。「薬を多めに持ってきましたが、もうあと1日分しかなくて・・・。」と不安そうにインタビューに答えている年配の女性を見て、痛感した。
 もちろん薬を飲むだけなら先生にお願いして旅行前に多めに処方して頂き、1か月分でも持って行けるかもしれないけれど、毎週オーダーメイドの点滴治療をしている身には長旅はやはり贅沢というものか。

 と、考えると、やはりシュンとしてしまうが、そうなったらますます読書で好きな時に好きな所へ思いっきり旅する気分を味わうしかないな、と思う。
 たとえ実際にはどこにも行けなくても、自分の想像力さえあれば世界各国どこにでも羽ばたける。ちょっぴり負け惜しみかもしれないけれど・・・。

 そんなわけで旅行を意識した本を買って帰ってきた。
 気を取り直して読書で旅行を楽しみつつ、明日も治療日だ。
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2010.4.18 500色の色鉛筆と友のこと

2010-04-18 10:05:39 | 日記
 通販で、毎月25色ずつ20回コースの色鉛筆を予約購入している。
 ちょうど去年の春スタートして、現在11回分手元にそろった。275色だ。毎月25色のグラデーションがとても綺麗。そして色のネーミングも洒落ている。今月はピンク主体の25色だったが、たとえば「岩陰のユキワリソウ」とか「南アフリカのフラミンゴ」とか「杏の里の花便り」とか・・・。色ごとに簡単な「この色を好む人は・・・・」という占いの文章がおまけでついている。少女趣味と言われれば確かにそうなのだが。

 500色揃って棚にセットされた壮観なカタログの写真を見たとたん、久しぶりに小さかった頃の塗り絵好きの血が騒いで「欲しい・・・」と思った。一人で買い揃えても良かったのだが、2人で頼むともっと幸せ(殆ど半額近くになる割引適用)ということで、思い切って友人を誘ってみた。

 友人には息子より3ヶ月後に生まれた(学年は1つ下)、やはり一粒種の男の子がいる。
 彼女とは大学入学以来のつきあいなのでもう30年になる。我が家の鉄ちゃん息子が初めて新幹線に乗ったのは、その友人が出産で里帰りしていた彼女の故郷に会いに行った時。まだ生後7ヶ月だった。その時は車窓を見ることもなく、電車を見て喜ぶわけでもなく、乗ったとたん私のひざの上でずっと寝てしまったが。
 本人たちはもちろん覚えていないだろうけれど、当時の写真を見ると、二人ともこんなにちっちゃかったのに、でもしっかり面影が、というか、今の顔がしっかり縮小されている感じで実にほほえましい。
 赤ちゃんのときはベビーカーで一緒にディズニーランドに行ったり、小学校に上がってからは大阪に出かけてユニバーサルスタジオジャパンに行ったりもした。
 色鉛筆の購入は、去年の春、彼女の息子さんが中学に合格したお祝いをするため、息子の入学祝いをしてもらって以来久しぶりに会った時(職場復帰直前だった。)に持ちかけた。

 今、彼女も息子さんもとても辛い状況にあるので、詳しくは書けないけれど、この毎月配達される色鉛筆を息子さんも気に入っている様子だ。ひと月に一度届いた時に、お互いにお互いのことを考えられる、というのがとてもいい距離感、という感じ。もちろん電話をしたりメールをしたり、という直接のやりとりもあるけれど、「ああ、彼女の所にも着いたんだな、今月の色はどうかな、気に入っているかな、どうしてるかな、元気にしてるかな。」と思いをめぐらす時間が良い。

 占いの紙には各々の色を塗る場所もあって、届いた日にはゆったりと心穏やかな気持ちでその円を25個分塗っている。最終的に500色揃ったら、リビングの壁一面に飾りたいと思って、専用の飾り棚も用意した。
 夫には最初「一体どこに置くんだ!?」と難色を示されたが、「壁に飾るなら今の絵をはずせばいいか・・・」ということで許可された。

 20ヶ月というと注文してから1年8ヶ月。
 始めたときは、まだ体調が本調子ではなかったので結構弱気になっており、(元気に1年8ヵ月後を迎えられるかな・・・? それでもこれを励みにしてきちんと500色揃ったのを心ゆくまで見て楽しんだら、「大人の塗り絵」を始めるんだ!)と思っていた。

 開始して1ヶ月、2ヶ月のときはまだまだ当分先だ・・・、と遠い道のりであるような気がしていたが、気づけば早くももう折り返し地点になった。
 あと9ヶ月、友と息子さんの幸せを祈りつつ、月に一度のささやかな楽しみを待ちながら暮らしていきたいと思っている。
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2010.4.17 ゆとり教育・・・その後

2010-04-17 12:08:49 | 日記
 今朝起きると外はあたり一面うっすらと雪。
 4月17日に東京に雪が降ったのは実に昭和44年のこと以来だそうだ。ちょうどアポロが月面着陸をした年とのこと。本当に寒い。いまだに真冬用のダウンコートがしまえない。1ヶ月予報でも5月まで気温が低かったり、変動が激しいようだ。体調管理をしっかりしなくては、と思う。
 ちょうど息子が産まれた14年前も4月のお天気が悪く、低温続きだったと記憶している。毎朝なかなか厚手のコートが脱げず、息子はおくるみでしっかりくるんでベビーカーに乗せて登園した。この春は1996年以来の寒い春、と聞いていたら、いきなり41年ぶりの雪になった。

 さて、小学校1年生から完全な「ゆとり教育」で育った子どもたちが中学3年になった。息子もその一人。

 公立中に進んだ小学校の同級生たちが、駅前の塾で大勢姿を見せるようになっている。先日もぺこりとお辞儀をされて、(何年か同じクラスだった男の子だ・・・)と気づくのに時間がかかった。あまりにおじさん(失礼!)風になっていて驚いた。いよいよ同級生は受験生モード突入なのだろう。

 先日、和田秀樹さんの「『ゆとり教育』から子どもをどう守るか」(講談社+α文庫)を読んだ。2002年ゆとり教育開始直前に初版が出たものだ。“情報錯綜の中、必須の智慧を網羅した好著”ということでゆとり教育に警鐘を鳴らす内容になっている。
 実際、既に来年度からはカリキュラムが変更になり、教科書も厚くなることが決まっているのだから、小学校、中学校とまるまる9年間の義務教育をすべて「ゆとり教育」で過ごさざるを得なかった息子の同級生たちのこの9年間は一体なんだったのか、と思わざるを得ない。

 これまで特に気にしていなかったけれど、私が子どもだった頃はカリキュラムが一番きつかった時代だそうだ。
 その頃は学校の勉強とはそういうものだと思っていた。円周率はやはり3.14であって、3では円にならないだろう。台形の面積も覚える必要がない、と言われてしまえばそうかもしれないけれど、覚えるものだと思って疑いもせず覚えた事柄は、不思議と今でも忘れていないものだ。頭が柔らかいうちに詰め込むことはある程度必要だと思う。
 今、日々脳細胞が死んでいくような齢になっていきなり2次方程式の解の公式を覚えろ、と言われれば頭を抱えるかもしれないけれど、当時はそうでもなかった。確か当時の数学の先生に「今がこの式を難なく覚えられる最後の頭の状態だ。」と言われたのをとてもリアルに覚えている。

 思い返せば、息子が小学校に入学して教科書を持って帰ってきたときは驚いた。
 カラフルで、本当にパンフレットと見まがうような薄い教科書。練習問題などは一体どこに書いてあるのだろう、というものだった。1,2年のうちは理科も社会もなく生活科。あとは総合学習だった。先生方もあれこれ実に苦労しておられたと思う。

 例えば国語。わずか数ページの短い物語を延々何度も何度も読み込むことに、飽きっぽい息子は辟易していた。別に読書が好きで図書館がお友達という子でもなかったが、「もうわかっていることを何度も何度もしつこく聞き直されるんだ。」と。丁寧といえば実に丁寧だったのだろうけれど、それで飽きてしまって実際に授業中が上の空では、どんどん吸い込むスポンジ状態の頭の子どもたちには、いかにももったいない。やはりもう少し中味があったほうが良かったのだろうと思う。
 教壇に立つ側としては、集団の授業においてどの子どもたちに焦点をあてて授業を進めるのかは、本当に難しいことだと思う。

 ゆとり教育云々はさておき、息子の小学校時代を振り返ってみると、それなりにいろいろあった。
 小学校3年生の時、息子のクラスは授業崩壊になって担任の先生が体を壊された。先生はちょうど4月に転勤されてきたばかりだったが、前の小学校から惜しまれてこちらにいらしたという評判の方だった。確かにとても素敵な方で、5月の家庭訪問ではすっかり意気投合してしまい、「この先生で良かった!」と思ったほどだ。
 ところが、その先生が当初張り切って出されていた学級通信類が1、2回出たきりで、後が続かなくなってしまった。今になって思えば、とてもそんな精神状況ではなくなってしまっていたのだ。
 2人の男の子がじっと座っていられずに教室から自由に出て行ったり、校長室へ行って好きなことをしたり、授業中に大声で関係ないことを言って授業を遮ったりしていたようだ。担任を持たない遊軍の先生が担任補佐として、じっとしていられない子ども2人に付きっ切りになった。時にはそれでも足りず教頭先生も張り付いた。
 クラス替えがなかったので、4年生になってもその状況は続いた。すでにこのクラスは問題あり、ということで、高学年のクラス運営を得意とする男性のベテラン教諭が鳴り物入りで担任になった。それでも後半は体調を崩してお休みされてしまい、緊急措置で教頭先生がクラス担任を代行された。「もうあの子(たち)とは一緒にさせないで!」という強い声が保護者会で聞かれた。その子たちのお母さんは保護者会に出てこられなくなった。

 5年生になって息子は相変わらずその子たちと同じクラスになった。4年生の時から徐々に別の特別学級に通い出していた1人の子は、完全にそちらの学級に行き始めた。1人の子は残ったけれど、5年生の担任の先生との相性が良かったのか、その先生の言うことだけはちゃんと聞くようになって、いつのまにか嘘のように落ち着いた。
 それでも3,4年生のとき学級崩壊を経験した子どもたちのブランクをは実に大きかったようで、「残念ながら学校での勉強しかしていなかったお子さんとそうでないお子さんは取り返しのつかないくらいの学力差がついています。」と5年生になってからの保護者会で担任からお話があった。

 実際に4年生の時の授業参観で教室での状況を初めて目の当たりにして、(3年生の時には忙しさにかまけて授業参観にも行けず、学年末の頃は初発治療中でもあり)詳しいことは何も知らず、とりあえず息子が楽しく学校に通っているようなので安心、と思っていたおめでたい私は驚き、これは冗談でなく中学にこのまま上げたら大変なことになる、と思った。
 ゆとり教育が信用ならず勉強が心配で・・・、というよりも、3年生で学童クラブが終わってしまうので、放課後の受け皿として軽い気持ちで塾に行かせ始めた(本人も塾の授業が新鮮でテンポ良くとても面白かったようだし、テストの賞品に惹かれて進んで通っていた)けれど、最初はそれほど真剣に中学受験を考えていたわけではなかった。それが、ここでちょっと本気モードにならざるを得なかった。

 とにかく中学3年生になった。
 息子は中高一貫校には通っているが、来年の2月には外部受験生と同じ問題で受験をするシステムになっている、という。つまりもう受験まで10ヶ月を切っているというのに、本人はいたって他人事の様子だ。

 精神年齢がとても幼なかった息子にとって、12歳の試練はとても厳しかったけれど、今回は既に受験というものを一度経験しているわけだし、それなりに大人にもなっている(はず)だし、中学受験と違ってどの子もこれから先、上の学校に進もうとしたら避けて通れない受験なのだから、もう少し自覚をもって、今の自分はこのままでいいのか、自分はこれからどうしたいのか、そのためには今何をすべきなのか、を少し真面目に考えて欲しい。そして、どこかでやる気のスイッチが入ってくれればいいのに・・・と思う。

 今日明日と久しぶりにどこにも出かけない休日だ。外は寒いし、お天気もあまり良くない。無理せず最低限の家事の後、ゆったりのんびり読書三昧の予定である。
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2010.4.14 ハーセプチン89回目 

2010-04-14 20:19:05 | 治療日記
 今日はレントゲン撮影後、診察室へ入った。
 前回の採血結果で、先月横ばいだったマーカーがまたじわりと上がっていた。レントゲンでは両肺各1箇所の影が少し濃くなっている様子。それでもかつてのように全体にぽつぽつと広がっている、というわけではないそうだ。マーカー上昇はこの2つの影の影響だろう、とのこと。「普通(マーカーの上昇は)いきなり1.5倍とか2倍になるのだが、1割ほどの増だから、やはりハーセプチンの効果ですね。来月の結果を見て、また上がっているようなら薬を換えてみようか、というところです。今すぐ薬を換えよう、というほどの踏ん切りがつかない。換えてみて効く保障がないし、換えてもっと悪くなったら・・・という心配もある。」と先生はおっしゃる。
 もちろんマーカーがはっきりと上昇して、レントゲン画像上も明白に違いが出るというなら迷いようがないのだが。「ホルモン剤を一度変えると、また元に戻すということはできないのですか。」と質問したところ、「2ヶ月程度で戻ることはありうるが、あまり良くないかなという程度なら変えない。もっと悪くなったら別の話になるが・・・。」とのこと。
 「一緒に悩んでいただいてありがとうございます。」とお話してきた。また、ちょっと気になっていた傷口付近のほくろ(治療前にはなかった)を診て頂いたが、「(しこりがふれないので)皮膚への転移ではなくほくろでしょう。」ということで安心した。処置室に移動して、検温、血圧測定後、ハーセプチンの点滴は順調に終了。

 今日は3冊読めた。
 1冊目は日垣隆さんの「知的ストレッチ入門 すいすい読める 書ける アイデアが出る」(新潮文庫)。「インプットは必ずアウトプットを前提にする、おのれを知る」などの基本3原則もさることながら、最近どんどん増殖している自宅の本棚を思いつつ、書籍の収納法等が筆者の体験に基づいたもので説得力があり、するすると読めて実に得をした気分。とりあえず仕事でなく趣味で読書をし、こうしてブログを書いて幸せでいる私にはちょっと高度すぎるけれど。
 2冊目は阿刀田高さんの「短編小説より愛をこめて」(新潮文庫)。途切れ途切れの時間にも読める短編小説は私も大好きだが、短編のスペシャリストによるエッセイ集。ギリシア神話の話も面白く、以前に観た映画「トロイ」を思い出した。
 3冊目は橋本治さんの「勉強ができなくても恥ずかしくない①どうしよう・・・の巻」(ちくまプリマー新書)。学校になじめず、友達もいない、勉強もだめなケンタ君のお話。教育とは何か、勉強とは何かを考える小説の第1部という裏表紙のとおり、この後のケンタ君がどうなっていくのか、楽しみだ。

 氷河期といわれたバブルがはじけた後にも増して、就職活動が大変厳しくなっている。大学生でも内定率は8割だという。残念ながら今や大学のネームバリューだけでは就職には結びつかない。一緒に働く方としては出身大学と働くわけではなく、本人と仕事をするのだから、当然といえば当然であるが。

 SEをしている甥の会社に3月になってから東大院卒生が(来年の4月でなく、この)4月から採用してほしい、と訪れたという。幹部は「ついに我が社にも東大院卒が来るようになった!」と初の人材に舞い上がって採用を決めたようだが、甥はきわめて冷静で、「『それまで決まらなかったというのは、そういうことだから、採用はやめた方がいい』と言ったのに、結局自分のところに配属になって気が重い・・・」と言っていた。

 今や就職活動でも親たちの出番が多くなっている、という報道も目にする。もちろん、自分たちが就職した頃の価値観で間違った物言いや判断をしたり、うまくいかずに落ち込んでいる子どもに全く無関心でフォローもしないでいることはまずいだろう。

 私の頃は男女雇用均等法施行1年前で、四大卒の女性は、極端な話、企業もどう使っていいかわからない、という状況だった。外資系や民間企業の総合職で太く短く働くことはできたかもしれないが、結婚しても出産しても、細く長くではあってもとにかくずっと働く、という道は結局公務員しかなかったのだ。

 世の中の状況がうんと変わっているということは、息子の中学受験の時にも十分経験した。自分の頃の私立学校の偏差値など全くあてにならない。新興の進学校が次々に頭角を現している。もちろん昔からのいわゆる御三家などは別格であるが。

 だから当然に企業も同じことだろう。それでも・・・と思う。就職するのは本人で、親たちが説明会について行くこと、はては先回りして説明会にまで出席することはどうなのだろう。親の目にかなった会社に就職すれば、本人はその先安泰といえるのだろうか。先日もテレビで「内定塾」やら「就活合宿」やらに高額を投資している学生たちの様子を写して「就職にも塾」という番組をやっていて、思わず唸ってしまった。
 自分を見つめ直すこと、自分が何をやりたいのか、自分と向き合って問い詰めること、これも人の手を借りないと出来なくなっているのか。マニュアル通りの答えをいくらもらっても、採用サイドは退屈なだけだろう。

 中学受験は私自身の意思もあったから関わらざるを得なかったけれど、息子はよほどの失態がなければ(学校からレッドカードが出されなければ)高校受験は経験しないですむことになっているので、次なる受験は大学受験。ここに至ってはもう自分の意思で自分の力で切り開いていってもらわないと困ると思っている。

 中学受験では、大学付属という道は選択肢として1校も選ばなかった。せっかく勉強したのだから、また頑張らせなくてもエスカレーターが安心でいいじゃない、という意見はもっともだ。だが、12歳で、親が大学まで選択してしまうことに私は違和感を覚えた。入学後に高校・大学を受験し直すということも強い意志があれば全く不可能ではないだろうけれど、やはり人間、どうしても楽な方に流れるだろうし、他の皆が同じ方向に向かっている中であえて違う方向を目指す、というのは精神的にも肉体的にもよほどしっかりしていないと厳しいということはたやすく想像ができたので。
 もちろん本人が今の学校に通い出した時に「自分の意思で高校は別の学校へ、というリベンジもありだよ。」と言ってはみた。しかし、本人が行きたかった学校は高校からの募集がないので、再度挑戦することはできないし、不合格を突きつけられて悔しかったという気持ちはもうすっかりどこかへ行ってしまって、すっかり現状に甘んじてしまい、実にまったりのんびりだらだらと(と看過してもいられない状況になっていたのは先日も書いたとおりだが)暮らしている。

 大学受験はきちんと自分の意思でやってほしいし、わが身を振り返ると受験勉強はやはり経験すべき、と思う。一生のうちに一度は自分の意思で目標を定めてストイックに勉強することは、どうしても必要な経験ではないか。そして繰り返しになるが、大学受験のときはもうそれほど関わらなくても大丈夫、のつもりでもいた。

 ただ、今はなかなかそうも行かない様子だ。就職まで親がかり、なのにどうして大学受験を本人の意思に任せていられるだろう、といったところか。

 あっという間に中3になった息子の大学受験まであと4年弱、運良くストレートに大学に入って、その後これまた運良く4年で卒業するにしても、今の就職活動は3年生からスタートだから、その時まで最短であと7年弱、元気でやいやいと口を挟んでいられるかどうかは「神のみぞ知る」なので、どうも焦って目の黒いうち、口を出せるうちは、と「部活もなくごろごろしているなら、せめて本を読めば・・・、せめてスポーツクラブで汗を流せば・・・、」と干渉してしまうことに反省しきりの毎日である。

 病院のロビーには五月人形が飾られていた。「希望」と書かれた色紙とともに。
病院を訪れる患者さんやその家族にとって「希望」は本当に大切な言葉だ。たとえ完治しなくとも、共存していく時間をより長く、という希望をもってこれからも過ごしていこう、と思う。

 我が家では息子の五月人形も鯉のぼりもここ数年飾ってあげていないことをふと思い出して、反省した。これから何年飾ってあげることができるかわからないのに・・・今年は飾ってあげなくては、と思った。

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2010.4.13 一期一会 

2010-04-13 20:10:55 | 日記
 初夏のように暑かったり、真冬に逆戻りしたように寒かったり、毎日の服装調整が実に忙しいことになっている。それでもこうして三寒四温、間違いなく暖かくなっていくのだろう。既に日はずいぶん長くなっている。6時を過ぎても薄明るい。お天気に左右されやすい情けない私としては、気持ちの上でのゆとりにつながるから日の長さの伸びもささやかな幸せのひとつだ。

 最近「またね。」が叶わない年齢になってきているんだなあ、と思う。
 実際、先日も書いたようにO先生との「またね。」は叶わなかった。先月の伯父の法事でも、伯母から「今度いつ会えるか分からないけれど・・・元気でね。」と言われた。

 確かにこうして冠婚葬祭があれば親戚とも一堂に会するけれど、次回の伯父の七回忌までにあと4年ある。70代後半、80代という伯母や父母が全員元気に法事に出られるかは“神のみぞ知る”である。もちろん私も含めて。

 背骨を圧迫骨折して相変わらず要安静で外出が出来ない義母も「娘夫婦はお出かけなのに、私はとんだ誕生日だ・・・」とご容態伺いの電話で愚痴っていた。哀しいかな、長く生きているとやはり思うに任せないことが多いのだな、とつくづく思う。

 かつてのように「いつでも会える(・・・だから今そんなに無理してまで会わなくてもいいか)」とある意味傲慢に構えていた季節は残念ながら終わりに近づいているなと思う。
 もちろん人間は生身だから、誰しも同じ。どんなに若くて健康でも交通事故や不慮の事故、もろもろ考え始めたらきりがないけれど、現に高齢になったり持病をかかえていたりというと、そのことの信憑性がぐっと増してくる。確かに一度大病をすると“今しかない(次はないかもしれない)”から、ちょっと無理をしても都合をつけて面会する、となることはあるのだろう。それもこれも“今、自分のしたいことをしておく”ということにもつながるのだろうけれど。

 16年近く前に、欧州研修先でまだ荷ほどきもままならないうちに「無事到着したか~」と突然宿泊先ホテルまで訪問してくださり、初めての街まで荷物持ち兼見送りに来てくれていた夫ともども街中を案内して頂いた母校の教授の言葉が今も鮮やかに思い出される。
 「今、このときは二度と来ない。この先どんなに似たようなシチュエーションがあっても、今この瞬間は今だけ、よく覚えておこう。」と。思えば教授も前年大病をされていた。もちろん今もとてもお元気でご活躍でおいでだが。

 ようやく気持ちが落ち着いて上向きになってきて、近々かつらが外せる日が来たら、ずっとご無沙汰していて休職中に心配してくれた友人たち―「会いたいけれど、今はちょっと・・・(誰にも会いたくないの)」と不義理をしていた友人たち―に会っておきたい、と思っている。
 沢山の感謝の気持ちをこめて、おかげさまで毎日こんなふうに過ごせるようになっている今の私を見ておいて頂くために。

 帰宅すると、先日頼んでいた「愛する家族のためのエンディングノート」が届いていた。気がつくといろいろメモで書きとめておくようにはしているが、さすがに88版も重ねているだけあって僅か24ページの冊子だが、実によくまとまっている。「私のこと・私の過ぎ去りし日々」から始まって、「私から家族へのメッセージ~介護・看病についての希望、尊厳死・延命治療・脳死・ホスピスケア・献体についての考え方、生前予約、伝えておきたい言葉ともの、遺言」や「葬儀・法事などについての私の希望~方法や費用、連絡してほしい友人・知人」「家族や親戚の記録」「財産について」等。
 “備えあれば・・・”ではなく、明るく験担ぎで“用意しておけばずっと使わない・・・”ということにして、今から楽しみながらちまちま書いておこうと思っている。
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