散日拾遺

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『宇宙を動かす力は何か』 ~ 初めて知るカオスの意味

2016-07-07 10:29:46 | 日記

2016年6月30日(木)

 先の父の日 ~ 6月19日に、タンブラーとあわせて本を一冊贈られた。誕生日に藤田嗣治の画集を贈られたことはあるが、読み物は初めてである。僕のほうは要らないほど本をプレゼントしてきたので、初の「リアクション」自体に楽しむものがある。

 内容は表題の通りで、文系の学生たちに物理学を教えている筆者が、数式を使わずにニュートンからアインシュタインに至る物理学の本線を解説しようというのである。9章立てで、前半は面白いが少々まどろこしく、いっそ数式を使ってくれればいいのにと感じる。これはたぶん、読む側の浅慮である。

 6章に閑話休題の教育論が挿入され、ここで一気にギアが加速される感じ。身体感覚の伝承という教育形式の重要性を、自身の合気道体験を踏まえて論じるくだりや、「理系」と「文系」の区別をナンセンスと言いきるところ(これは別の章だったか)など、心から同感・快哉。何より、「カオス理論の意味するところを恥ずかしながら初めて学んだ。

 「現象そのものは決定論的にふるまうのに、初期条件のわずかの違いが予測を不可能にしてしまうようなもの」が、「カオス」なのだ(P.153)。知らなかった!そしてこういう現象が存在するという気づきは、それだけで人生の眺めを 〜 そこを照らす陽射しの柔さと色合いを、何ほどか変えてしまう。根本的には同じ川の流れに従う決定論的事象であっても、初期条件が微妙に違うだけでたどり着く岸辺は大きく隔たる、そういうことが現実にあるのだ。肝心な部分にあり、至るところにあるのだろう。これは確かに世界観を変える。変えずにすまさないところが物理学の(数理科学の?自然科学の?科学一般の?)痛快さである。

 しかし注意が要るのだろう。カオスは決定論を覆すのか、それとも原理的には決定論の範囲内に留まりながら、実際に個別の現象を予測することの絶望的な困難を示唆するものなのか。周囲の現象のどれがカオスで説明され、どれがされないのか。囲碁の対局パターンは原理的には有限の組み合わせでしかないが、実際にはたいがい20手も進むと未知の世界に踏み入る。「初期条件が微妙に違うと・・・」という表現はこのことを連想させるけれど、おそらくこれはカオスですらないはずだ。著者自身が「実際にはカオスが顔を出すためには、ある一定の条件が必要」と書いている。それを会得するまでは安易に応用することができない。それにしても既に十分すぎる驚きである。

 7~9章はお待ちかねの相対性理論(相対性「原理」ではない。この両者の違いも初めて意識した)、特殊から一般へ進むに連れ、どこかしらで必ず「分かっていたつもりが分からなくなる」のは、何度やっても腑に落ちることのない条件付き確率と事情が似ている。もどかしく、落ち着かず、そのくせ生きていることの楽しさとつながるのである。

 

*** 以下、抜き書き ***

 ここはもうしばらく我慢して、この「当たり前」をもう少しだけ掘り下げてみましょう。これは学問のプロでもそうなのですが、自分の常識を解体するときが一番辛いのです。(P.64)

 常識は日常生活を営む上でとても大切ですが、その常識が一体何に基づいているのかを知ることもまた大切です。これらは両輪なのです。この両方を同時に持つと、日常の風景に深みが出ます。これはとても楽しいことです。常識を解体するのはとてもしんどい作業ですが、そうするだけの価値はあると私は思います。(P.66-67)

 ※ 石丸註: 著者が使っている「常識」という言葉の意味に注意。「常識」の「識」は「知識」の「識」ではなく、「認識」の「識」であるとでも言おうか。

 分かっている事よりも分かっていない事の方がはるかに多いのです。いや、これは言い方が良くありません。『分かっていないことすら分かっていないこと』があまりにもたくさんある、という方が正しいでしょう。(P.146)

 現象そのものは決定論的にふるまうのに、初期条件のわずかの違いが予測を不可能にしてしまうような現象を「カオス」と呼びます。名前だけ聞くと、規則性など何もない破滅的な印象を受けますが、そうではありません。非線形性が原因となって、見た目の運動は予測不可能なほど複雑に見えますが、実はその背後には美しい規則性があることが最近の研究で分かっています。複雑さの中にちゃんと理(ことわり)があるのです。(P.153)

 普段はあまり意識してないかも知れませんが、この「絶対時間」という感覚は、情報の伝達が一瞬で行えるという信念に裏打ちされています。(P.188)

 質量を持つ物体は光のスピードまで加速できない、ということは、光のスピードで飛んでいる光自体は質量ゼロということになります。説明は省略しますが、光のように質量がゼロの存在は、逆に止まることができず、光のスピードで動くことしかできないのです。(P.217)

 地球内部が熱く保たれているのは、ウランなどの重い元素が自然に分裂してエネルギーを放出し続けてくれているおかげです。もしこの作用がなければ、温泉がなくなって私が涙するだけでなく、火山活動が止まることで大気の供給が止まり、地球は死の星になるでしょう。地上で得られるエネルギーは、もとを正せば太陽か地熱のどちらかです。地球は相対性理論の効果で生かされていると言っても過言ではありません。(P.220)

 「静止状態」から見ると、地上に立っている状態というのは上向きの加速状態です。(P.241)

 地動説が正しいなら天動説もまた正しい、この主張は正しいでしょうか?答は、恐ろしいことにYESです。地球が止まっているという立場であっても、太陽系の運動を理論的に完全に再現することが可能です。(中略)ただし、地球の静止系から見た惑星や太陽の運動は恐ろしく複雑です。予言能力は地動説と全く同じですが、人間が取り扱う以上、ややこしくなる分だけ価値が下がります。同じ予言能力を持つならば、素直に太陽を中心にした方が記述が単純になり、幸せになれるというものです。(P.246-247)

 ※ オッカムの巨大なカミソリ!星野校長との酔談がなつかしい。

 このあたりにしておきましょう。著者・松浦壮氏の力量に「あっぱれ」!

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