散日拾遺

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記憶の射程

2016-07-18 19:03:07 | 日記

2016年7月18日(月)

 米ルイジアナ州バトン・ルージュで警官が銃撃され、3人が死亡、3人が負傷し、犯人の黒人男性はその場で射殺された。「7月5日に警官が民間人黒人男性を ~ おそらくは不当に ~ 射殺したのと同じ街」であることをメディアは一様に指摘する。そこからメディアの連想は翌7月6日にテキサス州ダラスでも警官が黒人男性を ~ やはりおそらくは不当に ~ 射殺したことへ向かい、米国における黒人抑圧の現状と将来へ、さらにはオバマ大統領や二人の大統領候補のこの件に対する見解へと向かっていく。

 僕の連想は、バトン・ルージュからまったく別の方角へ向かうのだ。この街で日本人高校生が射殺された事件である。旭丘高校(旧愛知一中、僕が名古屋に住み続けたら第一志望にしたであろう、愛知県内随一の進学校)の当時二年生だった服部剛丈(よしひろ)君が、この街で射殺された。経緯をインターネットから転記する。

「1992年10月17日、ルイジアナ州バトンルージュに留学していた服部剛丈君は、寄宿先のホストブラザーに誘われてハロウィンのパーティに出かけました。しかし、服部剛丈君は訪問しようとした家と間違えて別の家を訪問してしまいました。

 その家の主人ロドニー・ピアーズは、服部君を侵入者と判断しました。 そして44マグナム装を突きつけ、「Freeze(動くな)」と警告しました。しかし服部君は、なおもピアーズに向かって近づいていきました。「パーティに来たんです」と説明しながら。

 ピアーズは約2.5mの距離で発砲しました。服部剛丈君は出血多量により死亡しました。」

(http://saishintrend-ziyou.blog.so-net.ne.jp/2012-10-22 より転載。ただし一部改変)

 この話には当時から分からないことが多かった。その場に居合わせたのは、ビアーズの他に彼の妻だけだったはずである。「Freeze と警告したのに近づいてきたから撃った」との証言が射手の正当防衛を証しするものとされているが、事実彼がそのように警告した客観的証拠はどこにもない。いっぽう、ブログの筆者は服部君が「パーティーに来たんです」と説明したと断定的に書いているが、これまたそれを証明するものがないはずである。ビアーズがそれを聞きながらいきなり発砲したとは(あるいはそのように証言するとは)考えにくく、事実不詳とするほかない。むろん、説明しようがしまいが、服部君がそれ以外の理由で見知らぬ家へ足を向けたことはありえないのだけれど。

 バトン・ルージュ ~ フランス語で赤い杖を意味する。その昔、先住民が狩り場の境界に赤く染めた杭を立てたことに因むとある。1803年のルイジアナ買収で合衆国領となった地域に属すことは、僕らの住んだセントルイスと同じで、フランス語の地名にもそれが現れている。僕らが渡米した1994年には1年半前の服部君の事件の記憶がまだ新しく、それだけに渡っていく先の民心世情を忖度していろいろ心配もした。そんな個人的背景があるからよく覚えているのか。

 そうは思わない。皆どうしてそうたやすく忘れるのか、忘れることができるのか。バトン・ルージュで銃撃による被害者が多数発生していると聞いて、このことを思い出さずにいられる神経のほうがわからない。当時も銃規制が問題になったが、日本人留学生が一人「誤射」されただけで、アメリカのシステム全体が動くはずもなかった。こうした小さな警告を無視し続けたツケを、今アメリカが負わされている。

***

 夏の甲子園、沖縄大会で嘉手納高校が優勝し、全国最初の代表校決定となった。オジサンがまた言ってると笑われそうだが、かまわず言わせてもらおう。嘉手納(かでな)と聞いて僕が連想するのは、何よりもこの地に存在する米空軍基地のことである。嘉手納基地は沖縄市、嘉手納町、北谷町の3市町にまたがる東アジア最大の米空軍拠点で、面積は約20平方キロで、約3700メートルの滑走路2本を擁するとある。(http://www.asahi.com/topics/word/嘉手納基地.html))

 ベトナム戦争中、ここからB52戦略爆撃機が連日のように飛び立ち、ベトナム北部まで往復して空襲をくり返した。いわゆる北爆である。ベトコンの攻勢、クリスマスや旧正月のつかのまの停戦と戦闘再開などが飽きることなく伝えられ、ハノイ、サイゴン、ユエ、メコンデルタといったベトナムの地名とともに、嘉手納が記憶にしっかり刷り込まれた。北爆はその20年前、サイパンやテニアンから飛び立ったB29が日本の都市部を焼き尽くし、2発の原爆を投下した図式の再現である。ただ、今度はアメリカは勝てなかった。そこだけが違った。

 先週の水曜日の会食で、S君の御子息がビジネスでベトナムに滞在していることを聞いた。ベトナムについて平和な話題が語られる時代の到来を、不思議に思い貴くも感じる。僕らの小学生時代、ベトナムと言えば戦争の話題しかなかったよねと言っても、同学年のS君にはあまりピンとこなかったようだった。あたりまえだが、世代の問題だけではないのである。

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