散日拾遺

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大笑い小笑いしながら仲間から学ぶこと

2016-12-05 11:22:30 | 日記

2016年12月4日(日)

 待降節第2主日、午前中教会で過ごした後、渋谷へ移動して今年最後の「塾」の集まり。直前に体調を崩したメンバーなどあって8人になったが、楽しい会だった。テーマは「笑い」とさせてもらい、11月に我孫子で扱おうとしたことを、資料もそのままにホームの仲間たちに聞いてもらったのである。1時から4時30分までたっぷり時間をとってくれて、さすがにこれではもてあますだろうと思ったが、進むにつれて夢中になってあっと言う間に時間が過ぎた。時間というやつは本当に謎である。

 途中で「『精神分裂病の世紀』という本をかねがね書きたいと思っている」と打ち明けたら、それを聞くのは少なくとも3回目ですと指摘された。「カレン・カーペンターが亡くなった時のこと覚えてる?」と勝沼氏に振ったのもやはり3回目だそうで、これは1983年のことなんだから彼がよほど早熟な子どもだったとしても無理な相談である。ある年齢を過ぎたあたりから、特に年下の相手との世代差の認知がひどく悪くなっている。相手を高く評価している場合にそのことが起きやすく、「年長者を敬う」という心性が因果逆転して「敬意に比例して相手の年齢を過大に見積もる」という認知の傾向を生んでいるようにも思われる。

 それにしても執筆の夢をうちあけること3回というのはあんまりなことで、3回口にする間には本が仕上がっていないと恥ずかしい。理由がなくもないことで、いくつかの点についてかなり慎重な調べが要るものと思われ、その目途がなかなか立たないのである。ならばなおさら急ぐべし、ブログなんか更新してるヒマはない・・・かな。

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 「笑い」は論ずるものでなく実践するものだとすれば昨日の会は成功で、3時間30分の間に皆ずいぶん笑ったように思う。べてるではないが「場の力」というやつで、実は高性能の「笑いのスイッチ」を脳内に備えているとか、昨日も御夫君との間で笑いが止まらなくなる思いをしたとか、それぞれ話題はふんだんにもっている。後のためにメモしておきたいこともいろいろとあった。文脈から切り出してしまうとインパクトは萎えてしまうけれど、それは承知で列挙すれば・・・

・ 笑いは常に作り出す必要がある ~ これじゃ何のことか分からないが、たとえば人生早期につらい体験があったとして、その体験自体は既に起きたことだから今さらそれ自体が増減するわけではないのに、そこに由来する恨み悲しみは日々反復生産されるから、それを笑いで押し返そうとするならこれまた日々営々と作り出さねばならない・・・などといったことである。

・ 不安や恐怖を紛らわすため別の方面に笑いを求めるということがある一方で、自分が怖れている対象や状況そのものを笑うということもある。その方が解決方法として本源的であるのはいうまでもない。

・ 生死の境や分岐点に臨むといった深刻な場面で「笑い」を動員する人は、実は決して少なくない。

・ コントロールを断念し、いわば「吹っ切った」時に浮かべる笑み smile がある。このことが連想させる心理学上のコンセプトに「創造的絶望」というものがある。

・ 笑い laugh にはもともと攻撃的な要素がある。笑う時の人の顔が、歯を剥き出しにしていることを考えれば良い。たとえば「笑い」というものを知らない知的生命体が ~ 生命体ではなく人工知能でも良い ~ 人の哄笑を観察したら、攻撃に伴う(あるいは先立つ)何らかの儀式と解釈するかもしれない。「笑いものにする」という行動様式の加虐性を思えば足りることでもある。

・ 他人の苦労は可笑しいものである。それを笑うには、ただその人に対する親しみや共感を捨てさるだけで良い。

 等々・・・

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 この時期にこんなことを論じ始めるのは、ようよう大西洋を越えてたどり着いた新大陸の反対側に、もっとデカい太平洋を見つけてそこに漕ぎ出すみたいな感じがする。大げさでもないのですよ、主観的には。

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