散日拾遺

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保護者科前半 ~ 福音書記者ルカと宇宙飛行士ガガーリン

2018-09-02 23:50:06 | 日記

2018年9月2日(日)

 本日いわゆる振起日、保護者科のテーマは主の祈りの下記の部分。

 「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」

  やや楽をさせてもらった。というのもこの直前の「み国を来たらせたまえ」が相当難しい。キリスト教の終末論を総説しろというようなものだ。「みこころ」の完全に実現した領域が「神の国」であり「天」であるのだから、それを「来たらせたまえ」との祈りは本格根本の横綱級、いまだ来たらずといえどもせめて地上に「みこころをなさせたまえ」は、あくまで当面暫定の露払いにあたる。「み国」が到来したあかつきには、その当然の成果として不要になる祈りであろう。

 それでかどうか、「みこころの・・・」は、ルカ11章にはない。共通資料にマタイが付加したものと思われ、「われらの日用の糧を与えたまえ」に「日々 καθ ημεραν」ではなく「今日 σημερον」を加えたマタイのこだわりがここにも窺われる。ただ、露払いだからどうでもいいというのではない。横綱をしのぐ存在感を露払いが発揮することもある次第で、今ここでの話に関わる「地にもなさせたまえ」は切実な祈りだ。み国の到来を待っているこの瞬間にも被虐待児が命を絶たれ、難民が死んでいく。

 調べて初めて気づいたが、ルカにはそもそも「天の国」という表現がない、すべて「神の国」である。天(ουρανος)と地(γης)という誤解を招きやすい安直なメタファーは、ギリシア人医師ルカの性に合わなかったものか。これについて、古来膨大な数の論考が為されてきたことだろう。ルカは特異で多くの謎を含んでいる。

 ともかく話の前半は「天」「地」とは何ぞやというところに絞り、ここはガガーリン(Юрий Алексеевич Гагарин, 1934-68)に登場してもらう。1961年にボストークに搭乗して世界初の宇宙飛行士になったユーリ・ガガーリンである。

 日本では「地球青かった」という言葉で知られるが、海外で有名なのはもうひとつの方、「宇宙を見回したが、そこに神はいなかった」というものだそうだ。ただし、ガガーリンがこの言葉を語ったという確証はなく、むしろ下記のジョークを(密かに?)好んだとの説が有力らしい。

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 宇宙から帰還したガガーリンの歓迎パーティに、ロシア正教会モスクワ総主教アレクシー1世が列席しており、ガガーリンに尋ねた。

 総主教  「宇宙を飛んでいたとき、神の姿を見ただろうか。」

 ガガーリン「見ませんでした。神は見ませんでした。」

 総主教  「息子よ、そのことは自分だけの胸に収めておくように。」

 しばらくしてフルシチョフがガガーリンに同じことを尋ねた。総主教の言葉を思い出したガガーリンは、こう答えた。

 ガガーリン  「見ました。神を見ました。」

 フルシチョフ「同志よ、そのことは決して誰にもいわないように。」

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 真偽はさておき、「そこに神は見えなかった」というフレーズが共産主義ソ連のキリスト教国アメリカに対する挑発として作用したのは間違いなく、スプートニク・ショック以来負け続けのアメリカにダメを押す意味があった。事実、憤激したアメリカ人も多かったことだろう。

 ただ、ここで怒っちゃったとしたら、その人の神・聖書理解は底の浅さを露呈する。キリスト教の立場から言っても「そこに見えなかった」のが正しい。理由は簡単で、広大無辺の宇宙もまた被造物の一部に過ぎないからである。もしも神が見えたとしたら、それこそ小泉八雲の『常識』ではないが巨大な宇宙ダヌキに化かされたようなものだ。見える道理がない。

 「天」は宇宙のことではなく、空間的な上方のことでもない。この誤解を避けたくて「天 ουρανος」の語を排したとすれば、ルカの卓見というものである。「天」は神の在所にして「みこころ」の既に実現しているところ、仏教なら浄土ということになるだろうか。宇宙もまた此岸であって、そこに神の姿を求めるのが的外れであることを、ガガーリンがはっきり教えてくれた。34歳での事故死が、事情の不可解とあわせて痛ましい。

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/4104/

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