散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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現実性と合理性/にわかファンの拍手喝采

2018-09-09 23:03:28 | 日記

2018年9月9日(日)

 茗荷谷へ移動して月例のゼミ、修論主体だが博士課程からも学部卒研からも出席があり、毎度楽しい一日である。タボル山上のペトロさんではないが、座って聞いてて眠くなるといけないので、できるだけ立つようにしている。痩せる効果もありはしないかと期待するが、そううまくはいかないようで。

 午前中ある院生に助言する中で、不意に「現実性と合理性」に関するヘーゲルの言葉が口をついて出てきた。正確にはマルクス・エンゲルスによる引用の方である。読んだのは40年近く前、以来思い出す機会もほとんどなかったはずだから、こんなことがあるのかと自分でも驚いた。それを誘導したのは院生の知的な資質で、あたかも彼女の磁石が当方の記憶の小鉄片を吸い出したかのようである。

 帰宅後に確認:

 「一例をとろう。「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」というヘーゲルの有名な命題(へ―ゲル『法の哲学』)ほど、物のわからぬ政府の感謝と、それにおとらず物のわからぬ自由主義者の怒りをまねいた哲学的命題はなかった。」

 これ、これ。面白いので長めに転記しておこう。

 「これこそまさにすべて現存するものの聖化であり、専制主義、警察国家、専断的裁判、検閲の哲学的祝福ではなかったか。ヴィルヘルム三世(プロイセン国王、1770-1840)もそうとっていたし、その臣下たちもそうとっていた。しかしヘーゲルにおいては、現存するものはすべてただそれだけの理由で現実的でもあるとはけっしてかぎらないのである。現実性という属性は、かれによれば、同時に必然的でもあるものにのみ属するのであって、「現実性は、それが展開されると、必然的であることがわかる」とヘーゲルは言っている。したがってヘーゲルによれば、政府のどんな措置でも - ヘーゲル自身は「或る税制」の例をあげているが - 無条件に現実的であるということはけっしてない。しかし必然的なものは、けっきょくまた合理的でもあることが立証されるのである。したがってヘーゲルのあの命題は、当時のプロシャ国家に適用すると、次のようになるだけである。すなわち、この国家が合理的であり、理性にかなっているのは、そけが必然的であるかぎりにおいてである。それにもかかわらずもしそれがわれわれに悪く思われ、しかもそれが悪いにもかかわらず存在し続けるならば、政府の悪さは、それに対応する臣民たちの悪さのうちにしの当然の理由と説明を見いだすのである。つまり、当時のプロイセン人は、かれらにふさわしい政府をもっていたのである。」

 ダメだ、面白すぎて全体を引用することになりかねない。優秀な院生のためにもう一ヶ所だけ、抜き書きして終わりにしよう。それにしても古びないものである。

 「すべて人間の頭脳のなかで合理的であるものは、どんなにそれが現存する見かけだけの現実性と矛盾しようと、現実的なものになるように定められているのである。」「現実的なものはすべて合理的であるという命題は、ヘーゲル的思考方法のあらゆる規則にしたがって、すべて現存するものは滅亡に価するという他の命題に変わるのである。」

F. エンゲルス『フォイエルバッハ論』(松村一人訳、岩波文庫)P.14-16

***

 ところで大坂なおみ、凄いなぁ!

 僕はテニスはやらないし、わからないので、にわかファンの典型たるものだが、とにかくびっくり、感動した。プレーの力強さとキレの良さに加え、あの異様な雰囲気とブーイングの嵐 - アメリカのテニスファンも大したことないね - の中で少しも乱れない自制の力。試合前後のいじらしいセリーナ・ファンぶりと、試合中の冷静果断、どちらも本物で虚飾がない。カウンセリングの成立条件にいう genuineness(自己一致)とはこういうものではないか。攻撃的・挑発的に時代を切り開いたセリーナの後を受け、朗らかで融和的な未来を築いてほしい。

 もうひとつ、国とか民族とかをめぐる日本人の固定観念を、彼女が大いに揺さぶってくれるよう期待する。これは合理的であり、したがって現実的な期待のはずである。

Ω

 

 


ルカの記す山上の変容

2018-09-09 20:54:26 | 日記

2018年9月9日(日)

 JCはルカ9:28-36、いわゆる「山上の変容」。マタイ・マルコに並行箇所があるので、比較対照ということを少しだけやってみた(⇒ 末尾)。ルカが何を省略し何を加筆したか、たどっていくと面白い。

 たとえば青の網掛けはルカにはない表現である。マルコの「この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど」は同書らしい素朴な語り口だが、当時は(現在も?)布を染める以上に純白に晒すことが難しく、常ならぬ白さが神性の象徴であったことが思われる。

 緑は三者すべてにある「弟子たちが恐れた」の表現だが、どのタイミングで何を恐れたかは三者三様である。マタイでは神の言葉を聞いてひれ伏し恐れた。マルコでは変容そのものを非常に恐れており、その結果ペトロが意味不明の「仮小屋」発言をする。ルカではイエス・モーセ・エリヤが雲に包まれていく(=神の顕現)のが恐れを呼び、「仮小屋」発言はその前である。

 橙はルカが加えたもので、鼎談(?)のテーマが来るべき受難であることは、この場の直前にイエスの最初の受難予告が置かれていることと照応し、ルカらしい叙述の一貫性を感じさせる。面白いのは「眠気」のことで、新共同訳では「ひどく眠かったが、じっとこらえた」とあるところ、口語訳は「熟睡していたが、目をさますと」とする。βεβαρημενοι υπνω をどう訳すかということで、諸訳は「こらえた」説が優勢のようだけれども、「熟睡」説の大きな魅力はゲッセマネの風景との相似性である。主の受難が現実のものとして迫る時、弟子たちの肉体の弱さは起きていることさえ許さなかった。

 はっと目覚めて栄光に目くらんだペトロの「仮小屋」発言は、ルカの文脈ではまるで寝ぼけているような可笑しみを伴っている。

 末尾に「当時」を付記するのもルカらしい。「当時」は話さなかったが後には話した。いつ話したのかと言えば、主の受難と復活の後であろう。論より証拠を見ないことには、話して伝えられるところを超えたできごとである。証拠を見た後には、何度も繰り返して語ったに違いない。

(聖カタリナ修道院のモザイクイコン)

Ω

 

マタ 17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

マタ 17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。

マタ 17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。

マタ 17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

マタ 17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。

マタ 17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた

マタ 17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」

マタ 17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。

マタ 17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

マタ 17:10 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。

マタ 17:11 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。

マタ 17:12 言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」

マタ 17:13 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

***

マコ 9:2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、

マコ 9:3 服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。

マコ 9:4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。

マコ 9:5 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」

マコ 9:6 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。

マコ 9:7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

マコ 9:8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

マコ 9:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。

マコ 9:10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

マコ 9:11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。

マコ 9:12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを元どおりにする。それなら、人の子は苦しみを重ね、辱めを受けると聖書に書いてあるのはなぜか。

マコ 9:13 しかし、言っておく。エリヤは来たが、彼について聖書に書いてあるように、人々は好きなようにあしらったのである。」

***

ルカ 9:28 この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。

ルカ 9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。

ルカ 9:30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。

ルカ 9:31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。

ルカ 9:32 ペトロと仲間は、ひどく眠かったが、じっとこらえていると、栄光に輝くイエスと、そばに立っている二人の人が見えた。

ルカ 9:33 その二人がイエスから離れようとしたとき、ペトロがイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、自分でも何を言っているのか、分からなかったのである。

ルカ 9:34 ペトロがこう言っていると、雲が現れて彼らを覆った。彼らが雲の中に包まれていくので、弟子たちは恐れた

ルカ 9:35 すると、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえた。

ルカ 9:36 その声がしたとき、そこにはイエスだけがおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時だれにも話さなかった。


不平等即平等

2018-09-09 11:17:19 | 日記

2018年9月9日(日)

 KS君と天ぷらを食べた件の末尾:

 帰り際、銅(あかがね)製の調理器具のまばゆい輝きに目を細くしていると、頭上にかかった大きな額にKS君が目を留めた。

 「ほう」

 と唸ったのには訳がある。この件、項を改める。
(https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/7e7d12a4c77a3e967892857e53dc1b03)

***

 すぐに続けるつもりで2週間近く経ったのは、件の額を撮影させてもらってからと考え、それが少々手間どったためである。こちらがそれ。

 渋沢栄一は天保11(1840)年 ~ 昭和6(1931)年、従って満87歳夏の揮毫である。まさしく墨痕淋漓、見事というほかない。

 御主人によれば、当時渋沢翁がこの店を客として訪れた後に贈呈されたものとのこと。その後の空襲を生き延び、店の宝として大切にされてきたものか。贈った人、贈られた人の通い合う心が眩しい。

 この仔細は再訪の時に教わったもので、KS君と並んで見あげた当夜には、彼は記す筆の見事さ、僕は記された言葉の不思議さに、おのおの囚われていた。ちょうど『論語と算盤』を読み*、「士魂商才」に感じ入っていたところ。「不平等即平等」は仏教由来の言葉とあり、論語を至上とする翁が晩年に至って、どのような境地でこれを選んだものか。いわゆる「平等」は士魂商才の立場からも重要な概念だから、ゆめ軽く扱ったはずはないのである。

 「皆さん、いろんな解釈を述べて行かれますよ」

 と御主人。

 とりあえず、分からないものは分からないまま抱えておくとしよう。御礼代わりにお店の URL 。

 魚ふじ http://www.uo-fuji.com/pc/access_map.html

 歴史の古さや心意気をことさら喧伝する記載はweb上にはないが、訪れてみれば自ずとわかる。

Ω

*(2018-07-16『西郷どん二題』https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/e9d4ddb1c7918b150aab8cac5098c5db)