2018年9月4日(火)
Y君:
本を貸してくれてありがとう。
通りかかって「どう?」と聞いた時は、ちょうど読み終えるところだったのですよね。すぐには答えずきちんと最後の行まで追い終えると、君は珍しく吐き捨てるような調子で感想(?)を口にしました。その最初だったか最後だったかが「俺には文学はわからん」という忌々しげな言葉でした。
それを聞いて僕はひとつ読んでみたいと思ったのでした。
大きな賞の受賞作は、すぐには読まない、あるいは読めないのが僕の常ですが、君をそこまで否定的な気もちにさせたものなら、いっそ覗いてみたいと天邪鬼が囁いたのです。
読み終えて、おそらくはあの時の君とよく似た気もちを抱きました。これが優れた文学だというなら、僕には文学はわからない。ただ、少しだけ注釈を付けておきたい気がします。
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台風21号の強風で電車が軒並み遅延する中、復路にかかった早々読み終えた瞬間には、この作品には何一つ取るところがないと思いました。
のどかで美しい北東北の描写は、それが酸鼻を極める結末の背景なり伏線なりに使われることによって、その絶対値分だけ大きなマイナスにしか感じられません。
主人公は転勤族の息子で遠方から東北の学校へ転校してきたところですが、君は覚えているかどうか、この設定は僕にとって何重にも懐かしいものなのです。かつて僕自身がそのようなものであり、「風の又三郎」の主人公がそのようなものでした。わずか一年で転出した後にある人からもらった手紙の中で、光栄にも又三郎になぞらえて追慕されたことがありましたっけ。どどっこどうどう、どどっこどう・・・
その後の作中で描かれる自然の美しさ、人々の話す言葉 〜 東北は広く深く、僕の知る福島や山形と青森とでは相当の違いがあるとはいえ、それでも語彙と発音の基本において充分懐かしい。自身を「わ」、相手を「な」と呼ぶところなど、日本語の祖型を窺わせるようではありませんか。節分に鬼を追わない習俗、納屋に置かれた農具の豊かな沈黙、しかし、よく磨かれたそれらの小道具の全てが末尾での反転暗転に寄与するという胸の悪さ。文字通り何一つ取るものがない。
少し時間が経って、ふと違う考えが浮かびました。現代という時代の一断面を示すものとしてなら、この作品には実は大きな資料価値があるのではないでしょうか。
主人公が属した男女6名ずつの教室風景は、又三郎を迎えたそれと重なるようでもありますが、決定的な違いは次年度の廃校・統合が決まっていることです。床磨きに楽しさを見出す主人公に、晃は言います。
「そんな一生懸命に磨いても、意味ねじゃ。どせ来年には、ぜんぶ剥がされんだ。」
読み進める間、生き物とりわけ動物の描写のむやみに多い ~ 多すぎることが気になっていました。吊るされた鴉の屍骸、滅びをもたらす「ろくむし」、羽化に失敗して死ぬ蝉など、生よりも死、創造よりも破壊が基調のようだけれど、何しろ多すぎる、多すぎる中で最も印象に残るのは硫酸で焼き殺されたバッタのイメージ、この凄惨こそ真の通奏低音であることを、読み手は次第に感じとる仕掛けでしょうか。してみると多すぎるのも計算のうち、質に寄与しない無意味な生命の無意味な大量?
そして問題の暴力、末尾の20ページで突然、否むしろ満を持して全開となる酸鼻を極めた暴力の場面、それは君の吐き捨てた通り「意味がわからない」もののようですけれど、カギともいえない奇妙なカギがあるにはあるのです。
「旱魃も水害も蟲害もない。もう飢饉は起こらない。減反なんて言っても補助金は出る。すると農民は、次に何を求めると思うね?」
「はい?」
「白飯と娯楽をよこせってね。」
いわば暴力儀式の開始の号砲で、農民も舐められ貶められたものですが、これが文字通りの農民ではなく「福祉ボケ・平和ボケ」した僕ら都会人の風刺であるとしたらどうか。その少し前に少年たちがダムの水没集落について不謹慎な皮肉を放つのも同型のようです。総じて大人どもが過熟の末に腐っていくこの時代、見かけの潤沢の陰で若者や少年の攻撃性は発散昇華する宛てがなく、先がまったく見えてこない、とどのつまりは「伝統」の見せかけのもとに陰惨きわまる自爆を遂げるしかないのだと、そう読んだらどうでしょうか。
そう言えばこの物語には、ごく脇役的な形でしか女の子が登場しません。日本の男の子が元気をなくしていると指摘されて久しいのですが、そうした今日の男子らの病理報告としてなら、実は大いに価値があるのではないかというのです。しかし、そんなことは社会学者の関心事であって小説を楽しむ者の知ったことではない、価値があろうがなかろうが、面白くない、楽しくない、美しくない、愛おしくない、繰り返し読みたいと思わない、君と僕の鬱憤は要するにそういうことでしょう。
それだけに首をかしげるのは、日頃尊敬する複数の作家の口からこの作品への讃辞が語られていることです。その錚々たる顔ぶれを見ていると、ひょっとして君や僕が読み落としている何か大事なものがあるのかもしれないと心配になります。分かっちゃいないのはこちらではないか。
それならばいずれ、頭の良い誰かがきっと分からせてくれるでしょう。僕ら愚鈍な者たちにも、感想を述べる自由は保障されているのが現代という時代のありがたさです。その至高の権利を頼みにして、さしあたりこう言っておくことにしましょう。
どこが良いのかまったくわからない、芥川賞も落ちたものだ、と。
旅の安全を祈ります。
Ω