散日拾遺

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パウロに深く共感

2018-09-28 08:15:08 | 日記

2018年9月28日(金)

 キリスト教とはケッタイな宗教で、そもそも十字架刑に処せられた大罪人を神の子と崇めている。その信仰の核心がまた「死者が復活した/する」というとんでもないものだから、理知的なギリシア人らが「その件は後日あらためて」とドン引きしたのも無理はない。(使徒言行録 17:32)

 そんな教えが世界24億人に拡がっているというのがヘンな話で、おおかた何か勘違いがあるのだろう、人口の1%にも及ばないという本邦のありようがフツーである。ところが、そのなけなしの1%のうち少なからぬ人々が、復活ということを本気で信じてはいないらしいことに時々気づかされる。

 バカバカしい。十字架と復活を取り除いてしまうならキリスト教はとりたててユニークでもなければさほど面白みもない、平凡な一宗教に過ぎない。教会などは結婚式・葬式サービス付き社会福祉施設か、良い子の教育機関にでも転用してしまったほうがマシである。そんなものにコミットする酔狂はもたない。

 パウロという人の説教がましさにはしばしば閉口するが、少なくとも二つのフレーズがいつの間にか身のうち深く刻まれていることに気づく。

Ⓐ もし死者がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今なお罪の中にあることになろう。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた者たちは、滅んでしまったのである。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな存在である。しかし事実、キリストは死者の中からよみがえり、眠っている者たちの初穂となられたのだ。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 15:16-20)

Ⓑ 喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。(ローマの信徒への手紙 12:15)

 Ⓐを信じつつⒷを行うのが Χριστιανος と呼ばれる者の全てであって、このいずれかが欠けては話にならず、これ以外のことはどうでもよい。要するにそういうことだ。

Ω