散日拾遺

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天平の甍

2018-11-07 14:22:18 | 日記

2018年11月5日(月)

 田舎の家の本棚に井上靖の本が3、4冊並んでおり、中でこれだけ未読の『天平の甍』を帰途の友にした。(映画は見ている。)

 薄いものだが漢語満載の硬質な文体で、ゆっくり味読するのが楽しい。言わずと知れた鑑真和上が艱難辛苦を乗り越えて渡日する物語だが、読んでみれば主人公は鑑真ではない。鑑真という堅固な大舞台の上で交錯しつつ右往左往する5人の日本人僧が真の主人公、その個性の確かな描き分けはさすがの井上流である。

 鑑真について言えば、この偉大な唐僧がなぜ渡日を決断したか、僕にはよくわからない。p. 69-70あたり、説得といったまどろこしいものではない、誰か行くものはないか、誰もないなら自分が行こう、それで決まりである。「法のためなら」地の果てまでも踏破する和上の覚悟を訝るのではない、ポイントはなぜ日本なのか。大唐国をとり囲む新興文化圏の数多く、東側にも渤海あり朝鮮ある中で、他ならぬ海東の島国がどうして和上の心に叶ったか。力ある僧の派遣を切望したのがほかならぬ日本国、それだけのことなのかどうか。

 いかなる困難にも揺るがぬ信念は、同じ仏教圏ではやや先立つ玄奘三蔵のインド往復、キリスト教圏では使徒パウロの伝道旅行を想起させる。宗教家の偉大さの質はよく似通っている。

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 以下、トリビア。

 仏教にさまざまな種類、多様なグレードの戒律がある。戒律も授与されるものであって、賜ること自体が光栄な恵みであることは何教でも変わらない。注89に解読された菩薩戒、内容もどこか聞き慣れたものだ。すなわち:

 不殺・不盗・不淫・不妄語・不酤酒・不説過・不自讃毀他・不慳・不瞋・不謗三宝、以上十戒。

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 著者が好むと見える表現あり。

P. 86 廃園の竹の疎林に春の陽光が降り始めた頃、

P. 135 そこの廃園のような竹の疎林に面した一室で、

P. 150 そこの廃園に降る陽の光も、そこの竹林を揺るがす風の音も、

 これらがとりわけ心に叶うのは、そこから戻ってきたばかりの田舎家の敷地の西北隅に竹林があって、常に広がろうとするのが頭痛の種だからである。そっくり重ねてしまうと我が家は「廃園」ということになってしまうから - 事実スレスレだが ― 努めて少しの距離を残して読むことにする。

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 物語途中に、開元寺という寺が出てくる。P.115あたり、崖州で難船から救われた一行の宿舎となるが、三日目に街の大火で類焼し、鑑真は請われて寺の再興にあたる。ところが P.118では、崖州から北へ500km以上離れた桂林でまた開元寺が出てきた。さらにこの数日後『西遊記の研究』(太田辰夫著、研文出版)という本を読むことあり、その中に今度は泉州の開元寺である。確認したら開元寺というのは特定の寺の固有名詞ではなく、下記のようなものらしい。本邦の国分寺・国分尼寺にあたるか。

 「唐の玄宗が738年勅令によって各州に造立させた官立寺院。福建省泉州温陵にある開元寺は花崗岩で造られた高さ約60メートルの東西両塔で知られる。」

 この泉州の開元寺が『西遊記の研究』に登場するものと思われる。「貞観・開元の治」で知られる「開元」の元号は西暦713-741年、玄宗治世の前半にあたる唐朝の絶頂期である。五次にわたる鑑真渡日の企ては750年前後のことで玄宗治世の真っ最中、鑑真がついに日本に上陸したのが西暦754年で翌755年に安史の乱が起きた。鑑真もまた没落に向かう唐朝から新興の日本に移り、新たな花を咲かせただろう。

 作者は日本人僧の一人にこう語らせている。

 「俺はこの国はいまが一番絶頂だなと思った。花が今を盛りと咲き誇っている感じだ。学問も、政治も、文化も、何もかもこれから降り坂になって行くのではないか。」

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 『天平の甍』というタイトルから、鑑真和上を迎えた唐招提寺の屋根を覆って輝く何万枚もの瓦を想像したが、作者の趣向は全く違うものだった。

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