散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

The Killing Bottle

2018-11-17 16:47:56 | 日記

 2018年11月8日(木)

 本屋で『赤と黒』を冷やかしながら、この日は電車内で別のものを読んでいた。

 大学一年の英語の授業に少々思い出がある。1975年度は別々の講師による2科目が開講され、その一つで読んだのはフィッツジェラルドの『バジルとジョセフィン』、少し前に映画が公開されて話題を呼んだ『華麗なるギャツビー』のプロトタイプともいうべき小品。もう一方がL.P. ハートリーの『毒壜 The Killing Bottle』という短編だつた。

 思い出があるというのは両科目の成績評価に関わってだが、さらりと面白く書く自信がないので今は割愛。それよりも "Killing Bottle" の中にひっかかる表現があり、この40年間ときどき思い出していたという件である。62頁ほどの短編の冒頭、主人公の人となりが素描される下り。

 "... How well he had done at school, and even afterwards, while his parents lived to applaud his efforts!  Now he was thirty-three; his parents were dead; there was no one close enough to him to care whether he made a success of his life or not.  ..."

 そう、この部分をあらためて確かめたくて、書架の底から引っ張り出してきたのだった。

  個の自立を尊ぶ西欧人にもこういう心の動きがあるものかと、そこがいちばん不思議だったのである。不思議に思った当時は大学に入りたての18歳で、親離れなどはそのうち自然にできるものと思っていたところへ、33歳の英国人にこんなことがあり得るとすれば、そう簡単ではないのかなどと落ち着かない気がした。

 読み直している40数年後の今は親を亡くすということがついに現実となり、さて自分の内に何が起きるか、興味と不安こもごも抱えて眺めているところである。何が起きるにせよ、少年期の葛藤めいたものが焼けぼっくいよろしく再燃していることは疑いない。自分の子どもが大人になる頃に、自分の中の子どもが再活性化するのはよく知られたことで、「更年期」とはイヤな言葉であるが、使い方のために殊更イヤな言葉にされた観がある。

 「更」の字義は下記の通り、

① あらたまる。あらためる。「更改」「更新」「変更」

② 入れかえる。入れかわる。「更代」「更迭」

③ 一夜を五つに分けた時間の単位。季節によって長さが異なる。中国・朝鮮の古い制度の伝わったもの。

 ①、②の意を汲んでの「更年期」なら意義深くてけっこう、今まさにその期を迎え「あらためて」気になる文を読み直してみたわけだ。

***

 『毒壜』の実質的な登場人物は4人だけ、イギリス人男性3人に混じる紅一点が、「城」への招待者 Rollo Verdew の妻なるロシア人女性である。この布置で思い出すのはたとえば『魔の山』のマダム・ショーシャで、西欧的秩序の支配する重たい空間へ身軽かつ蠱惑的に切り込む攪乱者として、ロシア人女性は最適であるらしい。事実この女性は「イギリスの男」の鈍重さを思うさま切り捨ててのけるが、それは目の前にいるのがイギリス人男性だからであって、ロシアの男たちを懐かしむとか称揚するとかいった含みは全くない。

 かつ、ジム某には「他人から期待されるところを果たそうとする」傾向や、決断を外部の状況なり人物なりに委ねる傾向があるとされ、それがこの女性との対比をいっそう鮮やかにするのだが、このあたり返す返すも英国人より日本人に近いものを感じさせる。主人公のこの性格設定がイギリスの読み手にとって heimlich なものか fremd なものか、少々興味深い。

 作品そのものにはとりたてて魅力を感じないが、せっかくならもう少し読んでみたくて一冊とりよせた。装丁は悪くない。

Ω