散日拾遺

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学恩の方角

2018-11-28 09:10:06 | 日記

2018年11月28日(水)

 今朝配信の医療・医学クイズから。著作権を気にして表現は自前で。

 「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上、もはや医師は自分自身のものではなく、病める人のものである。もしそれを好まぬなら、他の職業を選ぶがよい。」

 来日したある外国人医師が弟子たちに伝えた言葉である。この医師は誰か?

 ① シーボルト

 ② モーニッケ

 ③ ポンぺ

 ④ ボードイン

 ⑤ ベルツ

***

Wikipedia 

 正解は、③ ポンぺ。これは知らなかった。ポンぺで検索してもなかなか出てこない。Wikipedia の見出しは「ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト」、正式のお名前は下記のようにさらに長い。

 オランダ海軍医ポンペ(Johannes Lijdius Catharinus Pompe van Meerdervoort, 1829-1908)、安政4年(1857)に来日し、同年11月12日に長崎奉行所西役所において、幕府医師松本良順らに西洋医学の講義を開始。長崎大学医学部はこの日を創立の日としている。

 ポンペは解剖学・病理学のみならず、物理学・化学など関連する学問全般を教授した。文久元年(1861)に、本格的な西洋式病院として長崎養生所を設立。牛痘による種痘も実施したほか自身で多くの患者を診察し、門人61人に卒業証書を出した。相手の身分に関わりなく診療したことで知られ、上記の言葉とよく呼応する。

 文久2年(1862)離日。後年、森鴎外が渡欧してポンぺに会った際、日本時代を回想して「夢のようだった」と答えたという。司馬遼太郎『胡蝶の夢』の主人公が松本良順らだが、「夢」つながりのタイトルという訳でもなさそうか。荘子原典のパラドックスを踏まえ、あえて関係づけるのも面白そうだけれど。

***

 他の選択肢について。

 シーボルトはオランダ商館医として文政6(1823)年来日。日本と日本研究に入れ込み過ぎ、禁を破って日本国の地図を持ち出そうとして、文政12(1829)年に国外追放となった(シーボルト事件)。⇒『ふぉん・しいほるとの娘』(吉村昭)

 モーニッケ(Otto Gottlieb Johann Mohnike, 1814-87)は、わが国に牛痘や聴診器をもたらしたオランダ商館医。嘉永元(1848)年から同4(1851)年まで出島に滞在。

 ボードイン(Anthonius Franciscus Bauduin, 1820-85)は、ポンペのあとに来日したオランダ商館医、文久2(1862)年から慶応2(1866)年にかけて西洋医学の定着のため尽力。大政奉還後に再来日し、慶応3(1867)年から明治3(1870)年にかけて大阪陸軍病院や大学東校などに勤めた。

 この4人のオランダ商館医を年代順に並べると、設問通りシーボルト、モーニッケ、ポンぺ、ボードインの順になる。その出自が面白く、シーボルト(独)、モーニッケ(独)、ポンぺ(蘭)、ボードイン(仏系蘭)と、必ずしもオランダ人ばかりではない。イネが父の言語と信じてオランダ語を学び続けたのに、長じて再会した父の話すのは品下れる(?)ドイツ語で、驚き落胆する場面が大河ドラマ版の『花神』の中にあった(イネ役は浅丘ルリ子)。

 ボードイン(ボードワン)が上野公園の生みの親として顕彰されていることなどは以前触れた。もう何年も前かと思ったが、昨年の同月である。

 『上野公園の樹木伐りすぎ他』https://blog.goo.ne.jp/ishimarium/e/dc029516399c173bde36a4b3575c1f2b

 そこでも書いたように、それまでのオランダ頼みを「御一新」とともにあっさり切り捨て、英仏独などに範を求めていく変わり身の早さが、見事でもあり浮薄とも感じられる。医学に関してその後ドイツ一辺倒になるのは周知の通りで、ベルツ(Erwin von Bälz, 1849-1913, 日本滞在 1876-1905)は象徴的存在だった。ただ、これに先駆けオランダ商館医として「蘭方医学」を伝えた人々がドイツ人やフランス系であったあたりに、ヨーロッパの複雑さと文化伝播のアヤを見るようである。

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