2024年4月1日(月)
> 1976年4月1日、アメリカの企業家スティーヴ・ジョブズは、スティーヴ・ウォズニアック、ロン・ウェインと利益分配についての10ページの契約書を取り交わした。この日がアップル・コンピュータ設立の日かどうか意見の分かれるところだが、自分たちの製品の売買によって利益が出るということを確信した日のは間違いない。
当時ジョブズはまだ21歳で、シリコンバレーで当たり前の、コンピューター関連の何かで一儲けしたいという若者の一人だった。シリコンバレーは進歩し続けるエレクトロニクスの活気に満ち溢れ、ガレージから起業するベンチャー・ビジネスがひしめきあっていた。ジョブズもパートナーのウォズニアックも他の会社で働いており、アップルの仕事は副業だった。
彼が莫大な富を得るのはそれからわずか二年後のことである。小型化してもコンピュータの個人需要にはそれほど市場価値がないと思い込んでいた先発企業をよそに、アップル社が個人向けに発売したアップルⅡは爆発的な売れ行きを見せた。パーソナル・コンピュータ時代はまさにここから始まったのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.97
Steve Jobs
1955年2月24日 - 2011年10月5日
彼もまた『365日物語』上梓後に亡くなった。破天荒な話題には事欠かない人物だったようである。
Wikipedia から二件転記:
> 1971年の夏、16歳のジョブズは友人ビル・フェルナンデスの紹介で当時21歳のスティーブ・ウォズニアックと知り合い、すぐに意気投合した。その年の秋、ウォズニアックの母親にもらった『エスクァイア』誌1971年10月号に掲載されていたブルーボックス(不正に無料で長距離電話をかけることを可能にする装置)についての記事を読んだ2人は、急いでスタンフォード線形加速器センターの図書館に向かい、AT&T(ベル社)の技術資料を見つけ出し、それを元にウォズニアックがオリジナルのブルーボックスを作り上げた。ウォズニアックは装置を作ったことで満足したが、ジョブズはこの装置を1台150ドルで、学生を主な顧客として売りさばいた。最終的に200台余りのブルーボックスが販売され、ジョブズとウォズニアックは大きな利益を上げたが、あるとき銃で脅されブルーボックスを奪われたことがきっかけとなり、身の危険を感じた二人は販売を止めた。後にジョブズは、ブルーボックスで商売をした経験がなければAppleが誕生することもなかったのは、「100パーセント確実」だと語っている。
> 1972年、ホームステッド高校の4年生(最終学年)であったジョブズは幻覚剤のLSDを使用し始めた。ある日サニーベール郊外の畑で服用した際に体験した、麦畑が突如バッハの曲を奏で始めるという幻覚は、後年までジョブズに強い印象を残した。のちには、LSDによる作用を人生でトップクラスの重要な体験であると述べ、人生を金儲けだけに費やすのではなく、「歴史という流れに戻すこと、人の意識という流れに戻すこと」の重要性に気づかせてくれたと回想している。
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