散日拾遺

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【紙面から】 日米「指揮統制」を連携 / 4月11日 徳川慶喜江戸から水戸へ(1868年)

2024-04-11 07:13:54 | 日記
2024年4月11日(木)
日米「指揮統制」を連携
同盟強化 首脳会談合意へ
米英豪と安保協力検討
(一面見出し)
 
 アメリカが沈没するとき、一緒に海底に引きずり込まれるリスクをいよいよ増すものとしか思えない。「連携」というが米主日従の関係が変わるはずもなく、池澤夏樹氏が指摘する「みっともなさ」を裳裾の下に引きずって歩く体である。その忠勤に対するねぎらいが九年ぶりとかの国賓待遇だとしたら、ずいぶん安く済まされたものだ。
 「国賓は只で帰さぬ…」という上の句が「よみうり時事川柳」のヘッドラインにのぞいている。下の句が大いに気になるが、登録会員でないと見られない。それぞれ下の句を付けてごらん、と中高の国語か社会の教室でやってみたら、傑作が出るのではないかしらん。

***

> 1868年(慶応四年)4月11日未明、徳川幕府最後の将軍であった徳川慶喜は、謹慎のため江戸城から水戸に向かった。当初の予定では4月10日に出立するはずだったが、激しい下痢のため一日猶予を与えられてこの日を迎えた。江戸城の明け渡しも、この日に行われた。その4日後の4月15日に慶喜は水戸に到着している。この時、徳川慶喜は30歳であった。
 将軍になってからの二年間は、まさに激動の日々だった。66年に将軍となり、翌年、倒幕の密勅が下ると同時に大政を奉還した。続いて勃発した戊辰戦争では、臣下である幕府軍を置き去りにして大阪から江戸に戻り、敵前逃亡したと評された。鎌倉幕府から700年近くも続く武家政治を終わらせる役割が自分に回ってくるとは、慶喜自身思ってもみなかったに違いない。
 慶喜は大政奉還し、江戸城無血開城させたとはいえ、なお朝敵であった。彼が命を永らえたのは勝海舟ら旧幕臣の助命嘆願の努力が大きい。水戸に着いた慶喜は、その後駿府に移され、戊辰戦争終結後の1869年9月には謹慎を解かれた。
 以降、慶喜は歴史の表舞台から姿を消し、ひたすら写真や狩猟といった趣味の世界に生きた。1899年に初めて明治天皇と会見している。1913年(大正二年)76歳で天寿を全うしたが、最晩年は自動車に夢中だったそうである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.107

徳川 慶喜 
天保8年9月29日(1837年10月28日)- 大正2年(1913年)11月22日
在職:慶応2年12月5日(1867年1月10日)- 慶応3年12月9日(1868年1月3日)

月岡芳年『徳川治績年間紀事 十五代徳川慶喜公』
船で大坂を脱出する慶喜を描いた錦絵

 いろいろ考えられるし、実際いろいろ言われてもいるが、「水戸徳川家には徳川光圀以来の『朝廷と幕府にもし争いが起きた場合、幕府に背いても朝廷に弓を引いてはならない』という旨の家訓があった」のだとすれば、どう転んでも難しい決断ではあっただろう。
 じっくり考えて書かれたものが、何かないだろうか。
写真と引用:https://ja.wikipedia.org/wiki/徳川慶喜

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