散日拾遺

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どうせ摘むなら黒い穂を / 4月7日 戦艦大和撃沈(1945年)

2024-04-07 13:36:13 | 日記
2024年4月7日(日)

 「あのあたりも私の小さい頃は麦畑があって、通りすがりに麦の穂を摘んで叱られたりしました。どうせ摘むなら黒い穂を摘め、黒い穂は病気なんだから。黒くないのは摘んじゃダメだって…」
 先週の診療の際に患者さんが教えてくれたことで、「あのあたり」とは東京都杉並区の西武新宿線に沿う一帯である。「私の小さい頃」は昭和20年代だろうか。僕らが住んだ30年代には麦畑の拡がりは既になかったように記憶するが、至るところに空き地があって父も野菜なんぞを楽しみに育てていた。
 麦類の病気に裸黒穂病とか黒穂なまぐさ病とかいったものがあり、糸状菌(かび)によるものである。冒された穂は実に痛々しい。
 イエスの語った「毒麦のたとえ」というのがあり、生来なんらかの毒を含む品種のことと読めば普通だが、案外この種の病気を指すものだっただろうか。

 ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。
 『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。
 『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』
マタイによる福音書 13:24-30

***

> 1945年(昭和20年)4月7日の午後2時23分、日本海軍の保有する世界最大の戦艦大和は、九州坊ノ岬沖90海里の地点で、米海軍の集中攻撃を受け、約2,500名の乗組員と共に海中に没した。
 前日の午後4時、徳山沖に待機中の大和に出撃命令が下った。その内容は、片道分の燃料を積んで沖縄に向かい、浅瀬に乗り上げて自ら砲台となり、陸上の米軍を攻撃するという「最終任務」だった。だが、早朝に大和の動きを察知した米軍はすぐに出撃、昼過ぎから400機の艦載機による波状攻撃を浴びせ、爆弾六発、魚雷十本以上を大和に命中させた。こうして、世界に誇る巨艦は、ついにその戦闘能力を充分発揮する機会のないまま、海底深く沈む運命となったのである。
 この日、大和で出撃し、奇跡的に生還した吉田満の著書『戦艦大和ノの最期』によると、沈没の光景は「赤腹をあらわし、水中に突っ込むと見るやたちまち一大閃光を噴き、火の巨柱を暗天深く吹き上げ、装甲、装備、砲塔、砲身、全艦の細片ことごとく舞い散る」という想像を絶するものだったという。この火柱は上空6,000mまで立ち上り、遠く鹿児島からも見ることができた。午後2時25分、大和の沈没を確認した米艦載機は攻撃を終了し、すみやかに母艦に引き上げた。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.103


 「すみやかに母艦に引き上げた」のか。
 『戦艦大和ノの最期』は、その後の海上地獄をつぶさに描いているが、その事実性を疑うコメントもインターネット上に散見される。いずれにせよ、この巨艦に座乗していながら轟沈を生き延びた人々のあったことが驚異であり、その人々が艱難と生還の意味を後の人生で深く自問したのは自然なことと思われる。

吉田 満
1923年〈大正12年〉1月6日 - 1979年〈昭和54年〉9月17日

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