2024年4月16日(月)
> 1972年4月16日、チャールズ・チャップリンは1952年に制作されたアメリカでの最後の作品「ライムライト」で、アカデミー音楽賞と特別賞を受賞した。この日は彼の83歳の誕生日であり、制作から19年後の受賞だった。
チャップリンは1889年に、ロンドンで生まれた。五歳で初舞台を踏み、十歳で既に舞台人となり、1910年に渡米。25歳の時に映画に初出演した。
第二作大作の映画で「ちょび髭、どた靴、だぶだぶズボン、山高帽にステッキのスタイルを編み出すと、一躍人気者になった。主演だけでなく、監督、脚本もこなし、世界の喜劇王と呼ばれ、「キッド」「街の灯」など数々の名作を生み出した。
しかし、1940年以降の作品「独裁者」や「殺人狂時代」で、資本主義への風刺や戦争否定の立場を明らかにしたことで、戦争へ邁進するアメリカの国策と合わず、共産主義支持者のレッテルを貼られてしまう。作品も上映中止が相次ぎ、「ライムライト」の封切りでイギリスに行ったチャップリンは、そのままアメリカへ帰ることができなくなってしまったのである。
「ライムライト」のアカデミー賞授賞式に出席するため、チャップリンは19年ぶりにアメリカの土を踏んだのだった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.112
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Sir Charles Spencer Chaplin, KBE
1889年4月16日 - 1977年12月25日
1952年にアメリカを離れ、72年の授賞式のため戻ったのだとすれば、19年ではなく20年ぶりと思われるが、むろんそれはどうでもよい。チャップリンの国外追放は、ローゼンバーグ事件と同時期であり同根の事件であることは前に触れた。そのことがアメリカを知る上で重要である。
21歳で渡米した際、自由の女神を過ぎるあたりで「我、汝アメリカを征服せんがために来たれり」と大見得を切った話をどこかで読んだ。その言葉を40年を超える芸歴で見事に実現してみせたが、政治の文脈では痛烈なしっぺ返しを食った形である。しかしそのことはアメリカの恥であって、チャップリンの罪ではない。
その封切りのために米国を離れたのが追放の合図となった「ライムライト」に、20年越しのアカデミー賞が授与されたのは、言うなればアメリカが和解を申し出た形である。その間に何がどれほど変わったのか。
「温かな意思表示に感動したが、そこにはなにがしかのアイロニーがあった」とチャップリンが授賞式後に語っている。
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授賞式でのプレゼンターは、この通りジャック・レモンが務めた。
『アパートの鍵貸します』”The Apartment”(1960)と『あなただけ今晩は』 "Irma la Douce"(1963)、シャーリー・マクレーンと共演したこの二本がとても気に入っている。
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