散日拾遺

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4月27日 マゼラン、世界一周を目前にして客死(1521年)

2024-04-27 03:02:02 | 日記
2024年4月27日(土)

> 1521年4月27日、マゼランはフィリピンで原住民とのトラブルにより命を落とした。西回りでの世界一周を目前にしての客死であった。
 マゼランがスペイン南部の港から、五隻の船を率いて出港したのは、二年前の1519年9月だった。この航海の目的は、新大陸を越えて西廻りでの世界一周であり、総員277名の大艦隊であった。
 フェルディナンド・マゼランはポルトガルの下級貴族だったが、ポルトガル王に願い出た東洋への探索戦団の派遣が聞き入れられず、やむなく故郷を捨ててスペイン王に仕官した。マゼランの「新大陸を越えて香料諸島に行きつくための航路を発見する」という計画は、若きスペイン王を熱狂させ、マゼランは艦隊を率いて船出するのである。
 この航海はしかし、苦難の連続であった。よそ者であるマゼラン船長に忠誠を誓う者はほとんどおらず、航海中たびたび反乱が起こった。ようやく行き着いた新大陸南アメリカで、南端を迂回するための航路探索に十ヶ月を要した。11月28日、やっとマゼラン海峡を抜けて新たに開けた海を「太平洋」と名づける。そして翌年3月28日フィリピンに到着し、マレー語が話されていたことから、かつて東回りで到達していた地域に入ったことに気づいた。世界一周はまさに目前だったのである。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.123

 
Ferdinand Magellan
1480年? - 1521年4月27日

 旅先とりわけ外国で死ぬことを「客死」という。そういう意味でマゼランの最期は客死に違いないが、やはり少々違和感がある。実際には現地人との武闘の末に討ち果たされたもので、ヨーロッパ型の本格的な国家組織ではないとしても、相手はそれなりの領邦君主だった。「客死」といい「原住民」という言葉といい、このくだりは少々相手方の民度を過小評価する印象を与える。後でも述べるように、この件ではマゼランの側にエスノセントリックな傲りがあった。それで墓穴を掘ったりしなければ余裕綽々、故郷に錦を飾れたはずである。
 もっとも、スペインはマゼランの「故郷」ではない。コロンブスもマゼランもスペインでは外国人だった。コロンブスはジェノヴァ出身、西へ向かう彼の壮図を初めはポルトガルに売り込んだが、ポルトガル宮廷は喜望峰発見寸前まで来ていたアフリカ航路からの東回りに期待をかけており、不首尾に終わった。スペインでも交渉は難航したが、カスティーリャのイサベル1世が強い関心を示したところから道が開けていく。
 約30年後、こちらはポルトガル出身のマゼランに大望を託した「若きスペイン王」は、カルロス1世(1500-1558年、在位:1516年 - 1556年)こと最後の神聖ローマ皇帝カール5世。その母方の祖父母がフェルディナンド2世(カトリック両王)とイザベル1世であり、息子がフェリペ2世というつながりである。

 マゼラン到達時、フィリピンでマレー語が通じたというのが面白い。これはちょっとした僥倖で、マゼラン一行の中にエンリケと呼ばれるマレー人の奴隷があり、このエンリケが試しにマレー語で呼びかけたところ、マレー語で答えが返ってきたというのである。一帯の住民が皆マレー語を話していたわけではないのだが、マレー語話者の活動圏がフィリピンまで及んでいたことの例証ではある。それだけでマゼランには十分で、この時マゼランは世界周航の大業が事実上成功したことを確信し得たはずである。
 その後、マゼランはフィリピンの島嶼に割拠する王たちと交流し、初め大いに親睦の実を挙げた。セブ島ではミサに触れてキリスト教に改宗する者が多くあり、このあたりから悪魔が囁き始める。早々に目的の香料諸島へ向かえば良いものを、セブ島での成功に気をよくしたものか宣教師でもないのに布教に熱中し、そのやり方も次第に強硬、武力をちらつかせるようになった。遂には改宗と服従を強要してセブ島対岸の小島マクタン島で町を焼く暴挙に及び、当然ながら地元民の反感が燃えあがる。こうして起きた武力闘争の末、ラプ=ラプと呼ばれる王の軍に討たれたという次第。自業自得とはこのことである。
 その仔細を、実は9年近く前に当ブログで紹介した。請、下記御笑覧。

『マゼランとラプ=ラプ』

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