散日拾遺

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3月23日 エヴァンズがクレタ島の遺跡発掘に着手(1900年)

2024-03-22 07:15:06 | 日記
2024年3月23日(土)

> 1900年3月23日、イギリスの考古学者アーサー・エヴァンズは、エーゲ海のクレタ島で王宮と思われる遺跡を発見し、発掘を始めた。クレタ文明(または伝説の王ミノスの名にちなんでミノア文明ともいう)は、紀元前2000年頃から貿易によって栄えた文明で、紀元前1600年頃の後期クレタ文明では線文字も使用されていた。芸術的な壁画や工芸品でも知られている。
 実は、トロヤ発掘で有名なシュリーマンもクレタ島の発掘を計画していたが、地権の問題などで実現しなかった。シュリーマンの死後十年を経て、チャンスはエヴァンズにめぐってきた。エヴァンズは1932年まで発掘を続け、いくつかの王宮を完全に発掘し、その複雑な構造を明らかにした。まさに迷宮という言葉がぴったりの遺跡を、彼は伝説のミノス王の宮殿として発表したのである。この発見は高く評価され、彼はクレタ文明に関する第一人者として名声を確立する。
 しかし、エヴァンズが亡くなってから、少々風向きが変わってくる。彼の発掘の方法は、「お宝探し」と言われた先達シュリーマンの発掘よりは丁寧だったが、王宮の復元に熱心なあまり、コンクリート壁や柱を修復し、欠けていた壁画まで勝手に補っていたのだった。考古学は想像力を要する学問ではあるが、エヴァンズの発掘には少々行き過ぎがあったようだ。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.88

Sir Arthur John Evans
1851年7月8日 - 1941年7月11日


 コンクリートによる修復については「同時代の発掘者たちに、出土物を持ち去ってしまう傾向(結果的には盗掘に等しい)があったことも考慮されねばならない」とあり、事情や言い分はあるもののようである。
 一方、「線文字Bの解読を自分で行おうとしたため、粘土板はごく一部しか公表せず、このことが線文字Bの解読を大きく遅れらせる要因となった」ともあり、こちらの方が弁明しにくそうだ。

 線文字Aは紀元前18世紀から紀元前15世紀頃までクレタ島で用いられたものだが、「文字が刻まれた粘土板自体の品質が悪く、数も少ないうえ、文章の体裁に一定の法則が成り立っていないことなどから、現在までのところ未解読」とある。
 線文字Bはこれに続く紀元前1550年頃から紀元前1200年頃まで、ギリシア本土およびクレタ島で使われていた。自力解読にこだわって資料を囲い込んだエヴァンスが亡くなったのは、日米開戦の年である。その後は戦火を避けて梱包され、戦後もしばらくは利用できなかった。
 その後、アメリカの古典学者アリス・コーバー(Alice Elizabeth Kober、1906 - 1950)の貴重な貢献があり、これを踏まえて、建築家で古代文化研究家としてはアマチュアのマイケル・ヴェントリス(1922 - 1956)と言語学者ジョン・チャドウィック(1920-1998)が線文字Bの解読に成功する。
 その過程、とりわけアリス・コーバーが限られた情報から、各文字の音価は不明のままに子音・母音の組み合わせに関する規則性を見いだしていく部分は、ざっと見ただけでも実にスリリングである。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/アリス・コーバー

 こういった作業にAIを使うことが、謎解きの面白さを減殺するのか、それともその射程を拡げるのか、大いに気になるところである。

Ω

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