散日拾遺

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6月21日: パンクハーストによる婦人参政権要求デモ(1908年)

2024-06-21 03:48:22 | 日記
2024年6月21日(金)

> 1908年6月21日、ロンドンのハイドパークで、婦人参政権を要求するデモが行われ、約二十五万人の女性が参加した。このデモはエメリン・パンクハーストを中心とする女性社会政治同盟(WSPU)が主催したものだった。この団体は1903年10月に結成され、女性の地位向上、参政権のために運動しており過激な行動で知られていた。
 パンクハーストは1858年にマンチェスターで生まれた。母ソフィア・クレーンも女性運動家だった。また、パンクハーストの二人の娘も母親に劣らず熱心な活動家であり、三代にわたる筋金入りの活動家の家系だった。
 その運動があまりに過激だったため、 婦人参政権論者や運動家たちの賛同を得る事は難しかったが、この日のデモには多くの女性が参加し、しかも平和裏に終了した。
 しかし、一向に女性の権利が考慮されないことに業を煮やしたWSPUは、さらに行動をエスカレートさせていく。1913年には、ダービーレース中に国王所有の馬の前に飛び込み、一命をかけて抗議行動に出た運動家もいた。 翌年には暴動騒ぎも起こしている。
 パンクハーストは、イギリスで婦人参政権が認められた年、1928年の6月14日に亡くなっている。まさに婦人運動に捧げられた一生だった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.178

Emmeline Pankhurst
1858年7月14日 - 1928年6月14日

 これは大変な人物だが、娘たちがまた凄い。上掲には「二人の娘」とあるが、実は三人であるらしく、その一人一人がいずれ劣らぬ傑物である。四つの個性が激しくぶつかり合い、すさまじいばかりの家族ドラマを織りなしていく。

    

左:長女クリスタペル、Dame Christabel Harriette Pankhurst、1880 – 1958
中:次女シルヴィア、Sylvia Pankhurst、1882 – 1960
右:三女アデラ、Adela Constantia Mary Walsh、1885 - 1961

 クリスタベルがいちばん母に近く、過激な戦術を決して捨てなかった。第一次世界大戦終結直後の1918年、母とともに設立した女性党から総選挙に立候補し、僅差で当選を逃した。1921年にアメリカに渡って伝道師となり、キリスト再臨運動の有力なメンバーとして活躍する。1930年代にイギリスに帰国した時期、再臨運動についての講演を行っては、約1万人収容のロイヤル・アルバート・ホールを何度も満員にしたという。

 シルヴィアは24歳以来15回逮捕され何度も投獄されたが、WSPUの方向性には反対で、「命を犠牲にすることなく抗議行動を行う」べきであると主張し、女性参政権に限定されない社会活動を志向していた。結果的に母・姉と衝突してWSPUから追放され、第一次世界大戦ではイギリスの戦争を支持する母・姉に対して、戦争反対や良心的兵役拒否を支持するなど亀裂が深まり、結婚問題を機に母から義絶される。結婚に伴って姓を変えることを拒み、またエリク・エリクソンの母親と同じく、息子の父親の名を生涯明かさなかった。
 1936年のイタリアによるエチオピア侵攻を非難し、その後一貫してハイレ・セラシエ1世とエチオピアを支持し続ける。この時期、イギリスの諜報機関は彼女の行動を監視し続けた。1956年には息子とともにアディスアベバに移住し、そこで生涯を終えている。

 アデラもまた初めはWSPUの闘士だった。24歳の1909年には、チャーチルの演説を妨害するデモに参加し、建物から追い出そうとする警官を平手打ちにして逮捕された。しかしながらシルヴィア同様、母と長姉の過激な行き方には反対で、WSPUおよび母との交わりから放逐されたのも同じであるが、どういう経緯かアデラには「20ポンドとオーストラリア行きの切符、そしてヴィダ・ゴールドスタイン(オーストラリアの女性活動家)への紹介状」が突きつけられた。1914年にオーストラリアへ移住し、結婚して生涯同地に住んでいる。
 その後、政治的には共産党から極右政党まで遍歴があったが、フェミニズムと平和主義は一貫していた。1939年には来日した後、対日講和を主張したため、対日戦争勃発後の1942年に逮捕され7ヶ月間拘留されている。1960年にカトリックに改宗し、翌年他界した。

 おみごと。

資料と写真は全て Wikipedia から

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