散日拾遺

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言葉の紳士録 012: 「素っ裸」と「真っ裸」/「ゆわかれる」

2014-04-06 12:43:32 | 日記
昨4月5日(土)

 朝日のb3面「ことばの食感」から(ちゃんとオチがついていて、一笑できるのが嬉しい)

「素っ裸」と「真っ裸」
 中村明

 ある類語辞典の出版披露のパーティー会場で、司会者から突然「素っ裸」と「真つ裸」に何か違いはあるか、とマイクを振られた時には面くらった。
 言語学の大家が会う人ごとに意見を求める話題らしい。その辞典の編集主幹として出席しているてまえ、即座に何か答えないと格好がつかない。とっさに「素」のつく語と「真」のつく語の発想の違いを考えてみた。
 すると、「素足」「素手」「素肌」は靴下・手袋・衣類を身につけていない状態、「真っ赤」「真っ青」「真っ正直」はその状態に次第に近づく最終段階であることに気づいた。
 とすれば、「素っ裸」は衣類を身につけているか、いないかという、1かゼロかの、いわばデジタル思考であり、「真っ裸」は厚着から次第に薄着になって最後の一枚をずらしながら落とすという連続的な接近、つまりアナログ思考だと言えるのではないか。
 苦し紛れにそんな思いつきをしゃべった。調子に乗って、川端康成の「伊豆の踊子」のヒロインが湯上がりに主人公の目にさらしたのは「素っ裸」だろうと口走ったのが運の尽き。家で調べたら「真裸」とあった。それ以来、ここは「まはだか」と読んで気品を保っている。
(早稲田大学名誉教授)

***

 マイクを渡されてから答えるまでのわずかな時間に、これだけのことを考えつくのがスゴいけれど、思えば面接授業や講演会の質疑応答では、けっこうこれに近い軽業をやってはいるのだ。質疑応答大歓迎は身上で、それだけで授業を組みたいぐらい。
 人が何かを思いつくのは、案外こういう瞬間のわざであるのかもしれない。もとより、それを可能にする一定の条件が必要だけれど。

 こちらは記事を読んでゆっくり思案するから、以下はアンフェアな論評で、どだい素人の勝手な思いつきだけれど。
 「素」はそれ自体、「白」とか「未加工」とか「裸」とかいう意味があるよね。「素人」もそうだし、中村先生の挙げておられる「素手」「素足」「素肌」いずれもそうだ。だから「素っ裸」はそもそも一種の二重表現で、音便「っ」の効果がそれをさらに強める形になっている。
 「真っ裸」の「真」の方は「正真正銘の」「まじりけのない」といった意味だろう。いわば純粋さの方向からの強調だ。
 ついでに妄想を語るなら、「素っ裸」はえいやと脱ぎ去る威勢の良さを感じさせ、「真っ裸」は文字通り一糸も纏わぬ徹底ぶりを感じさせる。なので「順次脱いでいって最後の一枚を脱ぎ去る」という経時性(通時性)は、どちらかと言えば「素っ裸」に近いもの、「真っ裸」のほうにこそ共時的な感じを僕はもつのだけれど。

 それにしても羨ましいようなやりとりだ。
 医者でなければ、言葉に関わる仕事が良かったな。

***

 日曜午後のEテレ、「日本の話芸」をときどき録画しておいて見ている。
 歌丸師匠が高座をつとめているのは、いつの収録だろうか。4日、新幹線移動中に胸痛を訴え、入院したら肋骨にひびが入っていたんだという。この録画放映を見て、「痛くて笑えない」と回りを笑わせてるぐらいだと良いんだが。
 この人はタバコ一日70本吸っていたという猛者で、そのツケで肺気腫を抱え2009年にも入院歴がある。今回もその件があわせて指摘されているそうで、肋骨なんかは弾みでひびの入るものだが(僕も風呂場で滑ってやっちゃったことがある。おかげでアダムのあばら骨からエヴァが創られたという話の深い意味を覚った。一息ごと、いつもどこでも共にあるという意味だ)、肺気腫は要注意である。御年とって78歳だそうだから。

 『小間物屋政断』、数ある大岡裁きもののひとつで、その冒頭に小間物屋仲間が箱根路で追いはぎに遭い、杉木立の根本に縛られているのを主人公が発見する。
 その場面で師匠が「ゆわかれる」という言葉を前後二回使った。

 ゆう(結う)/ゆわく(結わく)/ゆわかれる(結わかれる)

 柔らかい、いい響きだ。
 「縛る」はすぐれて暴力的な用法であり、「ゆわく」にはずっと広い生活の裾野がある。

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