散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

原典に当たれ!

2013-10-05 18:43:46 | 日記
2013年10月5日(土)

放送教材収録の準備をしていて、ルターの有名な言葉を引用する必要が生じた。

まずは日本語で「ルター、リンゴの木」と入れてみると、それだけでいろいろ出てくるんだが、のっけから胡散臭い。

「たとえ明日が世界の終りでも、明日もリンゴの木を植えよう」

そんな風に訳したうえで(というか、そういう訳に違いないと決め込んだうえで)、あれやこれやと意味づけし、感動や託宣を付加しているものがあったりする。
ルター先生って、自爆的楽観論者だったの?
違うでしょ、いくらなんでも。

原典にあたるんです。
英語じゃダメだよ、英語がいくらドイツ語に近いと言っても、それ自体翻訳なんだから。
何のために辞書があって、脳味噌があるわけ?

„Wenn ich wüsste, dass morgen die Welt unterginge, würde ich heute noch ein Apfelbäumchen pflanzen“,

ほら見なさい。
全文の意味が取れなくても、「morgen」と「heute」を確認できれば用は足りる。
殊更ギクシャクと訳してみようか。

「明日、世界が滅びるということを、仮に(いま)私が知っていたとしても、なお私は今日、リンゴの苗木を植えるであろう。」
英語などと同じ仮定法だ。
ちなみに Apfelbäumchen は縮小語尾 -chen を伴っているから成熟した「木」ではなく「若木、苗木」ぐらいのところだ。
「リンゴちゃん」といった語感を響かせて微笑ましい。

「明日が世界の終わりと分かっていても、今日私はリンゴの苗を植え続ける」
ぐらいに言っておこうか。

キリスト教の終末論をめぐっては「終末が近いのなら、日常生活や世間道徳に意味はない」式のやぶれかぶれな反応がいつの時代にもあった。ルターはこれに反論し、終末に向けての緊張感の中でも、徳と理性をもって日常を整えるべきことを言ったのだ。
率直に言ってルターの人柄はあまり好きではないけれど、この一言には不朽の重みを感じさせられる。
そして「明日」と「今日」の対比はこの警句の生命線と言ってもよい。

連想は自由だが、引用は正確にするものだ。
勝手に捻じ曲げたことを原著者の権威をもって語るのって、あまりに恥ずかしいでしょ。
ちゃんと原典にあたってください!
(cf. 2013年4月13日『立国は私なり』)


Luther und das Apfelbäumchen
(http://www.luther2017.de/1299-luther-und-das-apfelbaeumchen)

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。