2017年2月21日(火)
13日(月)東京池袋、小俣先生との歓談で最初に話題になったのは、精神現象をあらわす大和言葉のことだった。
たふる、くるふといった言葉の由来から日本語の古層のこと、ドラヴィダ語との関連その他、連想と博学が自在に飛翔して止まるところを知らない。お若い頃から海外を旅しては、その地の精神病理学者や言語学者と出会い語らうことを続けてこられたというから、蓄積の広さ深さが尋常ではないのも頷かれる。日本語における「気」の用例が室町時代に始まるという件については、「いい線ですよ」とお褒めいただいた。この時代の宋学の導入が発端であろうという。勉強するタネがまた増えてしまった。焦らずにいこう。
ついでのことに、この前の記事の中で「綴る」と「啜る」という言葉を自分が使ったことに気を引かれた。「つづる」「すする」という訓読の響きの類似や、「一字一字つづっていく」「一口ずつすする」といった意味の類似がまた面白く、「叕」という旁(つくり)がそのあたりの仔細を表しているようである。
漢和辞典を「テツ」という音で引くと、剟(けずる)、啜(すする)、惙(うれえる)、掇(ひろう)、裰(つくろう)、畷(なわて)、綴(つづる)、輟(やめる)、錣(しころ)と、9つばかりずらずら出てきた。いずれも「細分化すること」あるいは「細分化されたものをつなぎあわせること」に関連しているように思われる。「輟(やめる)」はちょっと不思議だが、無限に続く車輪の円環運動を途絶させると考えれば良いのかな。
御本尊の叕はそれ自体「つづる」という意味があるようだが、手許の漢和辞典には見出し語として載っていない。
四條畷とか、錣山部屋とか、縦横に想像が伸びていく。ドラヴィダ語から連綿とつらなる大和言葉 ~ 縄文語と弥生語の重なりを考えただけでも相当に異質な塊をあえてこのように括るとして ~ の深さ・長さに、漢字とそれが携え来たった文化の広さ・厚さを加え、日本語を探索することの面白さはほとんど無尽蔵である。
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