2022年1月3日(火)
箸に12の機能がある、とあるところで読んだ。すなわち…
つまむ、はさむ、押さえる、すくう、裂く、のせる、はがす、ほぐす、切る、くるむ、運ぶ、混ぜる
だそうである。「突き刺す」はないのですよ、いいですか。
年賀状を110枚ほど、今どき多いか少ないか。
若い人たちが書かないというのは、昨今の通信事情を考えれば不思議もないところだが、この人々が中年期にさしかかった時、効用を見直すこともあろうかと期待する。いわゆる年賀状のつきあい 〜 年に一度(だけ)挨拶する間柄、互いの存在をほのかに意識し、日頃会うことはなくても遠く励ましあう関係には、それなりの価値がある。中には一度も顔を合わせたことがないのに、年賀状のやりとりだけが20年以上続いている人もあり、これも人生の味わいというものだ。
となれば、どうしても手書きでなければならない。といっても図案とこちらの連絡先、「謹賀新年」の定型句は印刷しているからたいして自慢にはならず、それで「半ば」というのだが、宛先宛名は手書きしたうえでいくらか丁寧に一言添える。これで110枚書くと12時間ぐらいかかるから、1枚あたり6分あまり使っている計算である。ジョギングなら1kmほど走れるか。
このわずかな時間がたいせつなのだ。
6分ほどの間は国際情勢も公私の事情も念頭になく、もっぱらその相手のことを考えている。そのことが相手との関係を更新し意味を回復する。これとは逆に毎日顔を合わせながら互いのことを少しも考えないつきあいが、どれほど身のまわりに多いことか。マルチン・ブーバー言うところの「我/彼」の構図に日頃の我らはどっぷり浸っており、そうした世間の中で「我/汝」をとりもどすよすがを与えてくれるのが、年賀状という習慣の功徳である。
このことに気づいてから、年末の二日間を年賀状の準備にあてる作業が楽しいものになった。名簿に従って表裏すべてを印刷し投函するなら、大いに時間の節約になるだろうが、その時間を節約してしまったらそもそも年賀状を出す意味がなくなるのである。誕生日のプレゼントを選ぶときアイテムの当たり外れもさることながら、相手が何を喜ぶだろうかと想像力を働かせて探し求める、時間と労力が貴重なのと同じ理屈である。
もとよりこれは当方のようなヒマ人の話。大いに活躍発展中の多忙な人々が労力と時間を節約するのを咎める意図は少しもない。ただ、SNS慣れした若い人々には、年賀状を手書きするのも悪くないよと勧めてみたい。試してみれば世界の見え方が少しだけ違ってくるはずだ。
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