2019年4月4日(木)
「万葉集は我国の大切な歌集で、誰でも読んで好いものとおもうが、何せよ歌の数が四千五百有余もあり、一々注釈書に当ってそれを読破しようというのは並大抵のことではない。そこで選集を作って歌に親しむということも一つの方法だから本書はその方法を採った。選ぶ態度は大体すぐれた歌を巻毎に拾うこととし、歌は先ず全体の一割ぐらいの見込で、長歌は罷めて短歌だけにしたから、万葉の短歌が四千二百足らずあるとして大体一割ぐらい選んだことになろうか。
本書はそのような標準にしたが、これは国民全般が万葉集の短歌として是非知って居らねばならぬものを出来るだけ選んだためであって、万人向きという意図はおのずから其処に実行せられているわけである。ゆえに専門家的に漸く標準を高めて行き、読者諸氏は本書から自由に三百首選二百首選一百首選乃至五十首選をも作ることが出来る。それだけの余裕を私は本書のなかに保留して置いた。
そうして選んだ歌に簡単な評釈を加えたが、本書の目的は秀歌の選出にあり、歌が主で注釈が従、評釈は読者諸氏の参考、鑑賞の助手の役目に過ぎないものであって、而して今は専門学者の考究にして精到な注釈書が幾つも出来ているから、私の評釈の不備な点は其等から自由に補充することが出来る。
右のごとく歌そのものが主眼、評釈はその従属ということにして、一首一首が大切なのだから飽くまで一首一首に執着して、若し大体の意味が呑込めたら、しばらく私の評釈の文から離れ歌自身について反復熟読せられよ。読者諸氏は本書を初から順序立てて読まれても好し、行き当りばったりという工合に頁を繰って出た歌だけを読まれても好し、忙しい諸氏は労働のあいま田畔汽車中電車中食後散策後架上就眠前等々に於て、一、二首或は二、三首乃至十首ぐらいずつ読まれることもまた可能である。要は繰返して読み一首一首を大切に取扱って、早読して以て軽々しく取扱われないことを望むのである。
本書では一首一首に執着するから、いわゆる万葉の精神、万葉の日本的なもの、万葉の国民性などということは論じていない。これに反して一助詞がどう一動詞がどう第三句が奈何結句が奈何というようなことを繰返している。読者諸氏は此等の言に対してしばらく耐忍せられんことをのぞむ。万葉集の傑作といい秀歌と称するものも、地を洗って見れば決して魔法のごとく不可思議なものでなく、素直で当たり前な作歌の常道を踏んでいるのに他ならぬという、その最も積極的な例を示すためにいきおいそういう細かしきことになったのである。
本書で試みた一首一首の短評中には、先師ほか諸学者の結論が融込んでいること無論であるが、つまりは私の一家見ということになるであろう。そうして万人向きな、誰にも分かる「万葉集入門」を意図したのであったのだけれども、いよいよとなれば仮借しない態度を折りに触れつつ示した筈である。昭和十三年八月二十九日斎藤茂吉。」
『万葉秀歌』序
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抜粋を試みるうちに、1500字ほどの全文を転記してしまった。何と真率で平易なこと、ここは茂吉翁の御託宣に素直に従うとしよう。「田畔汽車中電車中食後散策後架上就眠前」に微笑を禁じ得ず、架上とは欧陽脩の『帰田録』などに厠上(しじょう)とあるのと同じ、後架のことである。
万葉集の劈頭は「籠(こ)もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち」、掉尾は「いや重(し)け 吉事(よごと)」である。そのいずれをも、高校を出るまでのどこかで教わっていたことに気づいて、誇らしくもありがたくも思う。
僕は転勤族の息子で、博多で生まれてから三年毎にひどく遠距離の引越を余儀なくされ、学齢に達してからは前橋・松江・山形・名古屋の各都市で居住区の公立小中学校に放り込まれた。しかし、そのどこでもまっとうな教育を授けてもらえたし、レベルや進度の違いでひどく困るようなことは一度もなかったのである。先生や同級生の当たり外れはもちろんあったが、それらは概ね偶然の産物に過ぎなかった。
そのように全国どこでも一定の質の教育を保証しえた当時の日本の公教育に、心から感謝している。居住地を振り返ってみて、それぞれが萩原朔太郎・小泉八雲・斎藤茂吉・二葉亭四迷といったシンボルをもつことを思い、日本の地域文化の豊かさに感謝するのでもある。地域で授けられた公教育の中で育つにつれ、いつの間にか万葉の歌の何ほどかが身のうちに染み込んでいた、そのことが既に人類史上希有の幸せであったに違いない。
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「事実に反することを語った」として、政治家が国会と国民に対し陳謝する。これを聞く側は、「事実をありのままに語った」ことについて、彼が彼のボスらに平身低頭する図を重ねている。こうした場面が広く報道され、それを日常風景として見聞きしつつ育つ子らの不幸を思う。
役人は記録を改竄し、国権の最高機関で公然と嘘が語られ、司法は一般市民に対する苛烈と権力者に対する寛容を旨とし、行政は労働力として外国人を入れながら彼らの人権や福祉には注意を払わず、そのいずれに関しても誰ひとり責任をとらないし、とれもしない。これらすべてが次世代への教育的効果をもつのである。
健やかに育つものは幸いだ。
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