2023年5月23日(火)
55年ぶりの松江再訪、足かけ五日の滞在中に起きたこと、感じたことを具に書いていったら、一冊の本になりそうだ。
それは退職後の楽しみにとっておくとして、ここは写真数枚を限って心覚えに貼りつけておく。
東京を発つ直前に出会った人が、絵はがきを二枚くれた。
一枚はこれ。
白隠の半身達磨像。白隠の遺した多数の達磨像の中でも、よく知られたものの一つか。
白隠慧鶴(はくいん えかく)、貞享2年(1686年)~明和5年(1769年)は臨済宗中興の祖。修行中、老婆に箒で叩き回されたことで悟りを進めたと、どこかで聞きかじった。
もう一枚は、
仙厓の「指月布袋図」、こちらは白隠以上にファンが多いだろう。
仙厓義梵(せんがい ぎぼん)、寛延3年(1750年)~ 天保8年(1837年)。臨済宗古月派の禅僧、画家とある。
どちらも臨済宗か。わが家も耶蘇に転ずるまでは臨済宗の檀家だった。貴重な絵はがきをくれた人は、もちろんそんな事情を知っているわけではなく、踏まえているわけでもない。二枚の禅画が示す二つの境地をこもごも大事に、行きつ戻りつ日々を過ごすよう勧めてくれたのである。
送り出されて飛び立った飛行機の窓、ぶあつい雲の上に薄い光の柱が立った。岐阜県揖斐郡上空とGPSが教えてくれる。この吉兆は外れたことがない。これからもけっして外れない。
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土日二日間で90分8コマの授業はなかなかの力業で、夕方から少々時間があってもとても観光などできはしない。
泥のように眠った翌日、一日の休暇をとって懐かしい松江市内の散策に出る。路傍の掲示板に「白隠」の二文字、何とも幸先の良いことだ。白隠に池大雅(1723-1776)、風外慧薫(1568-1650)のコラボ展覧会らしい。時間の限られているのが残念。
まずは2015年にめでたく天守が国宝指定された松江城へ。小学校の図画の写生で何度か描いた懐かしいお城だが、何となくおちつかないのは昔聞いた人柱伝説のためかもしれない。記憶にあるのもあらまし以下のような話で、そんな城なら崩れてしまえと憤った昔を思い出す。
築城の際に天守台の石垣が何度も崩れ落ち、人柱がなければ工事は完成しないと工夫らが求めた。そこで盆踊りが催され、踊り手の中で最も美しく最も上手な少女が生贄にされた。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたという。石垣はでき上がり城も落成したが、城主の父子が急死し改易となった。人々は娘の無念の祟りであると恐れたため、天守は荒れて放置された。その後も長らく天守からすすり泣きが聞こえ、城が揺れるとの言い伝えがあって城下では盆踊りをしなかった、云々(小泉八雲「人柱にされた娘」など)
城よりも印象に強かったのは、昔存在も知らなかったお稲荷さんである。城の北側を西へ抜ける小道から入り込んだところにあり、小泉八雲がえらく気に入っていたとあるので寄ってみて仰天した。
これこの通り、何百ではおそらく聞かない狐、きつね、キツネ…まことに圧巻である。
近づいて眺めればわかるとおり、どのキツネも例外なく怖い顔をして前方を睨んでいる。護法の気概か、人々の安寧を犯すものへの瞋恚か、いずれにせよ堂々として立派なものだ。これらのキツネの背後に、いつの時代からどれほどの数の人々の思いがあったことだろうか。
クリスチャンなのに寺社に出入りするんですかと聞かれることがときどきあるが、これは正直なところ意味がよくわからない。創造と救済の根拠がそこにあるとは思っていないが、このような形に表されたひたむきな信心に敬意と共感を抱くことに、何のさしさわりがあるだろうか。少なくとも自分の存念はそういうものである。
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城山稲荷神社は小学校4-5年頃さんざん遊び回ったエリアの辺縁にあったのに、当時は気づいてすらいなかった。キツネに活を入れられて坂を下りたとき、目の前にかかる橋がその昔に反対側から見慣れたものであることを確信した。かつて住んでいた二つの住所にやすやすとたどり着くまで、30分とかからなかった。
不思議と言えば不思議である。近づくにつれ、顔を上げて犬のように鼻を鳴らしてあたりの臭いを嗅いでいる自分に気づいた。もちろん文字通りの嗅覚ではないけれども、あたかも臭いをたどるように見えないけれども確かな何かを追っているのである。建物はすっかり建てかわっていても、道筋が変わっていないことが助けになった。松江はそのように、姿を変えながら変わらずそこにあり続けていた。
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