2014年4月30日(水)
ヒトラー自決(1945年)の日、また南ベトナム降伏(1975年)の日だと。
戦争が終わった後、時として戦争中よりも酷いことが起きるのは想像に難くない。
サイゴン陥落の際、米軍は当然ながら米人と南ベトナム人の脱出を優先した。日本人や韓国人は米軍ヘリへの同乗を拒絶され、かなりの数の邦人が取り残されたという。
「日本は米の同盟国とはいえ直接参戦していないので、日本人がベトナムに残っても迫害を受ける可能性が低い」との判断があったとされ、その理屈からしても極めて危険だったのは「国連軍」の一翼として米軍と共闘した韓国の人々だった。
これらの人々に対する虐殺・迫害が起きなかった事実はベトナム側の徳でもあり、その後の国際関係の中でベトナムの立場を有利に保つ上で、「不作為のファインプレイ」として働いたのではないかと想像する。ソンミ村にせよ北爆にせよ、あるいは枯れ葉剤使用にせよ、報復したい理由は山ほどあり、坊主が憎ければ袈裟まで憎いのが人の心であってみれば。
***
◯ 既集墳典 亦聚群英
墳典(フンテン)は『三墳五典』(三皇五帝の事蹟を述べた書物)のことで、これをもって中国の古典全体を指す。
英はすぐれた人、英雄・英傑の英。
既に墳典を集め、また群英を聚(あつ)めたり。
「三皇五帝」が誰を指すかは諸説あり、李注は「伏犠・神農・黄帝」と「少昊・顓頊・高辛・唐堯・虞舜」を挙げる。(読み:フクギ・シンノウ・コウテイにショウコウ・センギョク・コウシン・トウギョウ・グシュン)
秦王・政は中国全土を統一した後、自身が三皇五帝のいずれよりも尊い存在であることを誇示するため、「皇帝」という新たな称号を創出した。その始皇帝の焚書坑儒を漢代に埋め合わせ、書物や知識人が復権にあずかった表れが、今日の八文字という次第である。
***
溜家の裏庭の森が騒ぐ。さわさわと、たおやかに枝を鳴らす。風が吹き抜けてきて。おせんを包み込む。甘やかな、ふくよかな香りの風だ。おせんの濡れた頬に、首筋に、うなじに、握りしめた指のあいだに、その香りが染みこんでくる。
おせんははっと目を瞠(みは)り、森を仰いだ。
ー 朱音様だ。
この香りは、朱音様の髪の匂いだ。これは朱音様の温もりだ。なぜ気づかなかったんだろう。
裏山の森のさらに向こう、大平良山の高みに、澄み渡る青空の下に、朱音様はいらっしゃる。これからはずっと、ずうっと。
『千の風になって』を連想させる、そのような終わり方、なるほどな結末。いろいろな意味で、日本人の死生観の正統的な後継者なのだ、宮部みゆきという作家は。
全403回、楽しませていただきました。思うところいろいろと、折りに触れて振り返ってみよう。
次の連載小説は、まあいいかな。それより『こころ』の再連載企画が始まっている。この際、じっくり読み直してみよう。
ヒトラー自決(1945年)の日、また南ベトナム降伏(1975年)の日だと。
戦争が終わった後、時として戦争中よりも酷いことが起きるのは想像に難くない。
サイゴン陥落の際、米軍は当然ながら米人と南ベトナム人の脱出を優先した。日本人や韓国人は米軍ヘリへの同乗を拒絶され、かなりの数の邦人が取り残されたという。
「日本は米の同盟国とはいえ直接参戦していないので、日本人がベトナムに残っても迫害を受ける可能性が低い」との判断があったとされ、その理屈からしても極めて危険だったのは「国連軍」の一翼として米軍と共闘した韓国の人々だった。
これらの人々に対する虐殺・迫害が起きなかった事実はベトナム側の徳でもあり、その後の国際関係の中でベトナムの立場を有利に保つ上で、「不作為のファインプレイ」として働いたのではないかと想像する。ソンミ村にせよ北爆にせよ、あるいは枯れ葉剤使用にせよ、報復したい理由は山ほどあり、坊主が憎ければ袈裟まで憎いのが人の心であってみれば。
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◯ 既集墳典 亦聚群英
墳典(フンテン)は『三墳五典』(三皇五帝の事蹟を述べた書物)のことで、これをもって中国の古典全体を指す。
英はすぐれた人、英雄・英傑の英。
既に墳典を集め、また群英を聚(あつ)めたり。
「三皇五帝」が誰を指すかは諸説あり、李注は「伏犠・神農・黄帝」と「少昊・顓頊・高辛・唐堯・虞舜」を挙げる。(読み:フクギ・シンノウ・コウテイにショウコウ・センギョク・コウシン・トウギョウ・グシュン)
秦王・政は中国全土を統一した後、自身が三皇五帝のいずれよりも尊い存在であることを誇示するため、「皇帝」という新たな称号を創出した。その始皇帝の焚書坑儒を漢代に埋め合わせ、書物や知識人が復権にあずかった表れが、今日の八文字という次第である。
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溜家の裏庭の森が騒ぐ。さわさわと、たおやかに枝を鳴らす。風が吹き抜けてきて。おせんを包み込む。甘やかな、ふくよかな香りの風だ。おせんの濡れた頬に、首筋に、うなじに、握りしめた指のあいだに、その香りが染みこんでくる。
おせんははっと目を瞠(みは)り、森を仰いだ。
ー 朱音様だ。
この香りは、朱音様の髪の匂いだ。これは朱音様の温もりだ。なぜ気づかなかったんだろう。
裏山の森のさらに向こう、大平良山の高みに、澄み渡る青空の下に、朱音様はいらっしゃる。これからはずっと、ずうっと。
『千の風になって』を連想させる、そのような終わり方、なるほどな結末。いろいろな意味で、日本人の死生観の正統的な後継者なのだ、宮部みゆきという作家は。
全403回、楽しませていただきました。思うところいろいろと、折りに触れて振り返ってみよう。
次の連載小説は、まあいいかな。それより『こころ』の再連載企画が始まっている。この際、じっくり読み直してみよう。