2018年1月27日(土)
日陰の雪が融けきらないうちに、次の雪の予報である。
雪と言えば、この冬の初雪は名古屋で見た。愛知学習センターで校務にあたり、その足で関西をまわって陸路帰省。学習センターの仕事がはねた後、中学の同級生で都合がついた三人が、雪のちらつく名駅傍の高層ビルで早い夕食に付き合ってくれた。
驚いたのはこの店のお通しで、何とブリのあら炊きである(写真左)。これがお通し?マジ?恥も外聞もなくかぶりつき、せせりしゃぶり、これが悪夢の正月太りの始まりとなった。
嬉しかったのはケイちゃんの元気な姿、二月のクラス会には杖ついて現れ、「股関節のなぁ、手術しんといけんのだわ、あんたも体は大事にしやぁよ」とぼやいていたのが、手術が首尾良くいったらしく、ピンシャンしてこの場にやってきた。
二日後に松山郊外で家族と合流し、早速この話をして「見違えた、元気に走って歩いとった」と言ったら、一同笑い出した。「走って歩く」はおかしいというのである。おかしいの?
いや、理屈は分かるんですよ。「歩く」と「走る」は違う動作だから、同時に走りかつ歩くことはできない、その通り。ただ、この場合の「歩く」は「移動する」といった意であり、「走って歩く」は「元気に(あるいは忙しく)駆け回っている」というほどの意味で云々。
違うんだ、理屈じゃなくてね、僕は人生のどこかで誰かが「走って歩く」と言ってるのを聞き、おかしいのは承知のうえで(あるいはそのおかしさが気に入って)自分の語彙に採り入れた。それがどこの誰からか、分からないのがもどかしいのである。
父母が知らないから伊豫弁ではない。つれあいが首を傾げるから関西弁ではない。息子らが笑ってるから東京弁やワカモノ言葉ではない。んじゃ、どこだろう?上州弁、出雲弁、山形弁、名古屋弁とたどってみるが判然としない。どこ?誰?
考えあぐねてググッてみたら、これも先刻話題になっていた。答えは「北海道」とある。北海道?
それでまた考えこんだ。北海道にルーツをもち、彼の地の言葉を伝えてくれた可能性があるのは、交際範囲内に一人しかいない。彼との会話の40年分を検索してみても、「走って歩く」は出てこないのである。違う、彼ではないな・・・
「誰?」「どこ?」と、正月中自問を繰り返しても答えは出ないのだった。
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ところで、この件に関連してネット上に気になる記載あり。「一般に通じない方言をむやみに使うものではない」とたしなめ、その文脈で「郷に入らば郷に従え」の諺を引いたものである。
言いたいことがうっすら分からないでもないが、少なくとも諺の引用は不適切で、「郷」が local community を意味することを見落としている。「たとえグローバルな標準から外れるものであっても、その郷に入る以上は郷のあり方を尊重せよ」というのだから、むしろ「標準語」に対する方言の立場を擁護するのが本旨に沿うものだ。ここのところの力/権威関係を逆転させてしまったら、この言葉はたちどころに魅力を失い、異端審問の標語に堕してしまう。
そもそも「標準語」はそんなに偉いものかどうか。「標準語」が先にあってそこから方言が派生したわけではない。八百万(やおよろず)の方言の豊かな総体が「日本語」であり、その内部で安定した疎通性を確保するために「標準語」が創り出されたのである。この意味で「標準語」ではなく「共通語」と呼ぶべきだという主張は、実(まこと)に理に叶っている。
僕は「共通語」の作法にはうるさい方だと自認するが、それは方言を低く見るからではなく、逆に方言の力を愛しもし、知ってもいるからだ。11歳の少年が初めての東北へいきなり放りこまれた図を想像してほしい。夏休みあけに転入して、正月頃にはいちおうの山形弁を話すようになったが、その間には笑い話や笑えない話が山ほどあったのである。円滑に「郷に従う」ことができるかどうかは子どもにとっては死活問題で、その作業を懸命に進める間、時間を稼ぎ身の証を立てるに役立ったのは、子どもだてらにしっかりした「共通語」の能力だった。
誇らしく方言を語り、場に応じて「共通語」を用いるのが理想、それを可能にするためにも、また日本語を学ぶ外国人の便宜のためにも、「共通語」の作法はむやみに変えるべきではないというのが「オジサンの主張」の要旨である。
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