散日拾遺

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政治的中立と信教の自由 ~ 憲法記念日に思い出すトリビアルな出来事

2014-05-03 09:48:11 | 日記
2014年5月3日(土)

 言わずと知れた憲法記念日、九条問題が突出して気のもめることだが、そもそも「憲法」を生活上のひとつのツールとして、もっと使ったらいい。道徳論をいうのではなく、「便利なツールだし、そのためにあるのだから、使わないとソン」という意味合いで。洗濯機などと同じだ。
 使い慣れないと、使い方の間違いも起きやすくなる。当然の理。

 最近、公共の施設の集会利用が「政治的問題に触れる」という理由で断られることが続いている、らしい。
 断る方は「政治的中立」を墨守しているつもりでも、見当が外れているのは識者らの指摘する通り。中立とは、「どの立場のものにも公平に機会を提供する」ことであって、「公平を失することのないようどの立場にも機会を提供しない」ことではない。そんなことなら、公共施設を税金で建てる意味がない。
 内田樹氏は特に「護憲勢力」の集会使用が禁じられたことを重く見て、公務員は「現に存在する憲法と法律を遵守する」義務を負うのだから、こうした立場の集会を拒絶するのは(なおさら)おかしいし、それ自体が憲法違反の疑いありと指摘する。例によって鋭いのだが、僕はこの論法には、戦術的な理由であまり乗りたくない。
 それよりも思い出すことがある。今でも胸が悪くなるような話だ。

***

 長男が小学校6年生の時だったと思うが、父親の集まりが地域で企画された。地元の小学校2校のPTA共同開催で、僕も出かけていった。グループ協議の時間になり、親子シャッフルしていくつかの島に分かれて懇談する。与えられたテーマが「それぞれの家庭で、どんなことを大事にしているか」というものだった。
 そうとなればわが家の場合、何といっても教会通いを外すわけにはいかない。そのことについて、ざっくばらんにいろいろ語った。
 懇談の時間が終わると共有の時間である。各島の書記が、それぞれのグループで出た話を報告する。僕らの島の順番が来て書記さんが立ち上がり、メモを見ながら話し、そして座った。
 驚いた。
 他のメンバーすべての発言について要領よく触れた中で、僕の発言だけ何の言及もなく、要するに無視されていた。書記さんは隣の小学校のPTA副会長だそうで、堅い表情でそっぽを向いている。やれやれ。

 おおかたこの人は、「公教育の場に宗教をもちこんではいけない」といったことをうろ覚えにしているのである。しかし、その趣旨はまるっきり逆だ。
 学校が特定の宗教にコミットしたり、特定の宗教を子ども達に押しつけたり(あるいは禁止したり)してはいけない、公権力をもって宗教に介入してはならない、それが本義だ。子どもの側から宗教にかかわる発言が出てきた時に、それを黙殺し排除せよという意味ではない。仮にそういう発言があれば、テーマの枠内でこれを尊重し受けとめるのが正しい対応であり、これを無視・黙殺するのはそれこそ人権に対する軽視であり侮辱である。
 保護者の会だって同じことだ。僕は自分のほうから宗教の宣伝を始めたわけではない。「家庭で何を大事にしているか」と訊かれたので、これに素直に答えて教会のことを語った。要するに質問に答えたのである。そしたら、その答えを「なかったもの」として扱われた。これははっきりいって侮辱ではないだろうか。そして「思想信条の内容に基づいて発言を選択的に排除する」という意味で、明白な憲法違反ではなかっただろうか。

 明らかに視線をそらしている書記さんの横顔を見ながら少考、結局、何も言わないことにした。長男と同じ学校の人なら、働きかけを続けて理解を求める余地もあるが、隣の学校の幹部さんに文句をつけては、厄介なこじれ方をしないとも限らない。だいいちこの人に「それ、憲法違反ですよ」といって、何かが伝わるとも思えず、「だからキリスト教は厄介なのだ」といっそう確信を固めさせるのが関の山・・・と、そのときは思ったが、やはり一言すべきだった。
 信教の自由が、この国にはまるで確立していないのである。制度について言うのではない。ユネスコ憲章をもじっていうなら、多くの日本人の心の中に、信教に関する無理解と差別がなお深く巣くっている。そして世界史の教訓が示すとおり、社会的な「寛容」はすぐれて宗教的なテーマを中心として発達してきたのだから、日本社会がいまだに「寛容」の意味を知らないのも無理はない。個々の日本人の優しさとは別の問題で、基本的なわきまえが未確立なのである。その意味で、日本人が「12歳の子どもなみ」だという評価にも一理を認めざるを得ない。

***

 この件、政治的中立をタテにして公共施設の使用を断る姿勢と、基本的に同根であり同型である。信教に関する発言を公的な場から排除するのが「中立」だと、多くの人が思い込んでいる。
 その現状を鋭敏に察知するからこそ、宗教をもつ多くの人々は公的な場で発言を為すことを控え、子ども達にも控えさせる。僕のような軽はずみはしない。結果が目に見えているからだ。一種の棲み分けがそこに成立しており、結果として教育の場は混乱を免れ、日本の子ども達は「宗教」について学ぶ貴重な機会を失う。
 当該公共施設の長たちが突出して愚かなのではない、PTA副会長さんと、彼らはまったく同じ判断をしている。問題は僕ら平均的日本人の内にある。

***

 以上の件を、「民は由らしむべし、知らしむべからず」という言葉と引っ掛けてみようと初めは思った。
 縷々述べてきた似非の「中立」とは、要するに事なかれ主義のことであり、それは為政者側の「由らしむべし/知らしむべからず」の姿勢とみごとに噛み合っている。知ることを断念してただ依存し、安全なところから文句を言っていれば「事」は何も起きはしない。世の中は平和であり、自分は無事である。
 愚民思想と愚民の処世訓、好一対だ。

 ところが確認してみると、この言葉の原義は少々違った。(まただよ!)

 子曰、民可使由之、不可使知之(『論語』泰伯)

 本来これは「人々を頼らせることは容易だが、理解してもらうのはむずかしい」という意味だという。訓示というより観察であり詠嘆である。これを「依存させよ、情報は与えるな」と読むのは後世の誤解というのだが、残念ながら誤解の方がはるかに人口に膾炙しており、実行されてもいる。(またです!)

 まだまだ先は長い。
 改憲なんぞよりも、まずはこの基本生活用品を十分に使いこなすことだ。

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