散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

訃報:龍虎

2014-08-31 07:30:52 | 日記
2014年8月30日(土)
 昨29日(金)、龍虎が亡くなった。
 現役時代は小結が最高位(1970年の春・夏・九州場所、1975年初場所)で、殊勲賞2回、敢闘賞3回、やんちゃ坊主みたいな親しみのある人気力士で、引退後はタレントとして活躍した。このあたりから、相撲取りという存在がこちら側に近づいてきた感じがする。
 相撲取りは概して短命である。肥満という点ではさほどでもなく健康体と思われた魁傑も、先ごろ66歳で亡くなった。龍虎の73歳は奇しくも大鵬さんと同年で、角界の人としては天寿を全うした組に入るかもしれない。
 家族旅行中に心筋梗塞で倒れたとのこと、御家族の胸中が察せられるが、みとってもらえた本人は嬉しくもあったろう。
 合掌

【追記】
 Wiki の記載で確認して、もう少し情報を付け足さなければ申し訳ない人であることに気づいた。
 ケガに負けずに幕下から小結まで戻ったのは、ものすごく立派なことだ。大関陥落・再昇進を果たした魁傑のことを今年ブログに書いたが、こうしてみると長く記憶に残るのがどういう人物であるか、よくわかる。最初の金星は「大鵬さんから」だったんだね。

 東京都大田区出身。都立大森高校を中退して花籠部屋に入る。
 新入幕の場所で11勝4敗の成績を挙げ敢闘賞を獲得。1969年5月場所(前頭2枚目)で大鵬から初金星を挙げ、この場所8勝7敗で殊勲賞を獲得。翌7月場所も東前頭筆頭で8勝7敗の成績を挙げた(この間、3場所連続優勝力士に土をつけるという珍しい記録をつくっている)が新三役に昇進できず、翌9月場所同位置で3勝12敗と大敗したが、その後はほぼ安定した成績を挙げ幕内上位を保持していた。ようやく1970年3月場所新三役(小結)。突っ張りを交えた気風のよい相撲振りと美男力士として人気を博し1970年9月場所、前頭11枚目で自己最高の13勝2敗を挙げた。
 しかし、翌1971年11月場所6日目に前頭7枚目義ノ花戦で左アキレス腱を断裂して3場所連続全休で幕下まで落ちた。このケガが1972年1月場所より公傷制度が設けられるきっかけとなったが(2003年11月場所限りで廃止)、龍虎自身には適用されなかったため、世間の同情を集めた。
 しかし、本人の不屈の闘志と努力が実を結び、幕下優勝(1972年9月場所、7戦全勝)、十両優勝(1973年3月場所、11勝4敗)と実績を重ね、1973年7月場所に再入幕する。その後も1974年9月場所で新横綱の北の湖から通算2個目の金星を獲得。1975年1月場所で小結となり三役にカムバックした(破門など協会からの離職によるブランクなしで幕下へ降下した元三役の三役復帰は史上初)。
 ところが、1975年5月場所初日の前頭4枚目旭國戦で、今度は右アキレス腱を切断(復帰後2度目のアキレス腱断裂、計3度のアキレス腱断裂)して、その場所限りで現役引退。引退後は年寄放駒を襲名するも1977年に廃業し、タレントに転向した。
 放駒親方時代の1976年から映画やドラマに出演していた龍虎は、相撲協会退職後、四股名の龍虎をそのまま芸名とし、本格的に芸能界に進出。テレビ、時代劇などで活躍していた。また、『料理天国』(TBS系列)の名物試食人として活躍。「おいしいですね」の一言はそのまま龍虎のキャッチフレーズともなっている。以降、舞台(北島三郎公演)などを中心に俳優として活躍していた。また、大相撲のご意見番としてテレビ朝日のワイドショーを中心に出演していた。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E8%99%8E%E5%8B%A2%E6%9C%8B)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。