2017年1月24日(火)
話が戻って二つ前の日曜日、中高生との礼拝に与えられた箇所は「ラザロの復活」の場面(ヨハネ福音書 11:38-44)である。仮死状態の病人を蘇生させたという話ではなく、完全に死んで四日も経った(丸三日が経過した)人間を甦らせたというもので、奇跡と言っても他の奇跡とレベルが一段違う。ヨハネは「霊的福音書」などと称され、三つの共観福音書と区別されたりもするが、不意を突くように他が言及しない生の事実を突きつけてくることがある。ベタニヤのマルタとマリヤはルカ福音書(10:38-42)にも登場し、ルカとヨハネの伝える雰囲気にあまりにも齟齬がないので、僕はどちらがどちらに書かれているかよく混乱していた。
「もうにおいます」(11:39)というマルタの言葉一つとっても、決して読みやすい箇所ではないし、まして受け容れやすい箇所でもない。幼い頃から周囲に聖書のある環境で育ってきたが、「ラザロの復活」を最初に知ったのは実は聖書からではなく『罪と罰』からである。高1の夏休みだから45年近く前になるが、家にあった旺文社文庫の江川訳をたまたま読んだことで、たぶん人生が少なからず変わった。
予審判事のポルフィリー・ペトロビッチは食えない男で、まるで刑事コロンボみたいに初めからラスコーリニコフが真犯人だと見抜いている節がある。その直観の裏づけを取るといった具合に ~ あるいはラスコーリニコフの人物像の全体を再構築することによって、起きた事態を総体的に理解しようとするように・・・この水準まで来ると、判事の仕事も心理臨床のそれと変わらない、要は共感的理解である ~ 広がりをもった問いかけや細部を穿つ質問で相手を翻弄する。
その最初の、そして非常に面白い場面は、第三部(五)、上巻のP.443から。
「じゃあなたは、やはり新しきエルサレムを信じておられるのですか?」
「信じてますとも」ラスコーリニコフはきっぱりと答えた。こう言ったときも、またいまの長広舌の間も、彼は終始下を向き、じゅうたんの上に選び出した一点だけをじっと見つめていた。
「で、神も、神も信じておられるんですか?やたら質問攻めにしてすみませんが」
「信じています」ラスコーリニコフはこうくり返し、ポルフィリーを見あげた。
「ラザロの復活も信じますか?」
「信じますよ。なぜ聞くんです?」
「文字どおり信じますか?」
「文字どおり」
「なるほど…どうも物好きな質問をしてしまって」(以下略)
***
まるで一途な信徒の信仰告白といった態で、この段階でのラスコーリニコフの行動や彼自身が掲げる思想とは、どうにも一致しない。といって、彼は予審判事の心証を気にして善良ぶっているわけでは決してない。当時の僕には訳が分からず、ただ訳も分からないのになぜこんなにワクワクするのだろうと思っていた。そして「文字どおり?」「文字どおり」というやりとりに強く興味をひかれていた。今でも訳は分からないが、今の分からなさにはドストエフスキーという作家の底知れぬ力量への畏怖が重なっている。というのもこれはある重要な伏線になっているからで、「信じている」と言いながらろくに読んでいなかったその箇所を、ラスコーリニコフはソーニャによってあらためて聞くことになる。第四部(四)は赤鉛筆で三重丸が記してあり、ひどく気に入った箇所らしい。下巻 P.88から。
「ラザロのとこは、どのあたりかい?」突然彼がたずねた。
ソーニャはかたくなに床を見つめていて、答えようとしない。彼女はテーブルにいくぶん横向きかげんに立っていた。
「ラザロの復活はどこ?探してくれないか、ソーニャ」
彼女は横目に彼を見やった。
「そんなところじゃありません…第四福音書です…」彼のほうに近寄ろうとはせず、彼女は小声できびしく答えた。
「見つけて、読んでくれないか」こう言うと、彼は椅子にかけ、テーブルに肘をついて、片手で頬杖をつき、ぶすっとした顔でわきのほうを向いて、聞こうと身がまえた。
『三週間もしたら、精神病院のほうへどうぞだ!おれも、たぶん、そっちのほうにいるさ、それより悪いことにならないかぎりね』彼は心のなかでつぶやいた。
ソーニャは、ラスコーリニコフの奇妙な頼みをけげんな面持ちで聞くと、ためらいがちにテーブルのほうへ近づいた。それでも、本は手にとった。
「お読みになったことがないんですか?」テーブルの向こうから上目使いに彼を見あげて、彼女はたずねた。彼女の声はいちだんとけわしいものになった。
「ずっとまえ…学校にいたころには、さあ、読んで!」
「教会で聞かれたことはないんですか?」
「ぼくは…行ったことがないんだ。きみはたびたび行くのかい?」
「い、いいえ」ソーニャはつぶやいた。
ラスコーリニコフは苦笑した。
「わかったよ…じゃ、あすもお父さんの葬式には行かないわけだな」
「行きます。わたし、先週も行ってきたんです…供養をしに」
「だれの?」
「リザベータのです。あのひと、斧で殺されたんです」
彼の神経はますますいらだってきた。頭がくらくらしはじめた。
「きみはリザベータとは仲よしだったのかい?」
「ええ…あのひとは心の正しいひとでした…ここへも来てくれました…たまにでしたけれど…そうそうは来られなかったんです。でも、いっしょに読んだり…お話したりして。あの人は神を見る方です」
聖句のようなこの言葉は、彼の耳に異様にひびいた。それに、彼女がリザベータと秘密に行き合っていたことも、ふたりがふたりとも神がかりだということも、新しい発見だった。
『こんなところにいたら、こっちまで神がかりになってしまう!伝染するぞ!』と彼は考え、ふいに「読んでくれ!」と押しつけがましい、いらだたしい調子で叫んだ。
ソーニャはまだためらっていた。心臓がはげしく打った。なぜか彼に読んでやる気持ちになれないのだ。彼は、ほとんど苦痛に近い表情をうかべて、『不幸な狂女』をながめていた。
「なんのために読むんです?だってあなたは神さまを信じていらっしゃらないんでしょう?」
彼女は小声に、なぜか息を切らすようにしながらささやいた。
「読んでくれ!そうしてほしいんだ!」彼はあとへ退かなかった。「リザベータには読んでやったじゃないか!」
ソーニャは本を開いて、場所をさがした。彼女の手はわなわなとふるえ、声が声にならなかった。二度読みかけて、二度とも最初の一句でつかえてしまった。
『さて、ひとりの病人がいた。ラザロといい、…ベタニヤの人であった…』
***
ここらでやめよう、でないと『罪と罰』をまるまる書き写すことになっちゃう。それにしてもなんで、どうしてこんなに面白いんだろう?フロイト先生の御批判はさることながら、やっぱりこれが一番おもしろい!
Ω