散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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しまなび賛歌

2016-06-27 17:58:06 | 日記

2016年6月23日(木)

 5月26日に書きかけていたことの、1か月ぶりの仕上げである。

 沖ノ島(宗像・沖ノ島)についてこんな番組が作られたらしい。

  

 考えるだに不思議な位置取りの島で、糸島半島から北へ60km、対馬市から東へ50kmの海原に浮かんだ孤島である。対馬市-沖ノ島-壱岐市を結ぶとほぼ正三角形になる。沖ノ島というとまず連想するのが『坂の上の雲』で、その第8巻、日本海海戦の場面にこんなくだりがある。

「・・・日露戦争当時、この沖ノ島の住人というのは、神職一人と少年一人で、要するに二人きりである。二人とも神に仕えている。神職は本土の宗像大社から派遣されている宗像繁丸という主典で、祭祀をやる。少年は雑役をする。宗像大社の職階でいえば 「使夫」 である。」

「少年の名は佐藤市五郎といった。明治十九年筑前ちくぜん 大島の生まれで、海の中から生まれたように泳ぎが上手だった。明治三十五年三月福岡県大島高等小学校を出るとすぐこの神体島の使夫になった。この少年佐藤市五郎が、この沖ノ島の頂上に近い大きな木の上に登って、眼下に展開する日本海海戦を目撃したのである。」

 佐藤市五郎は『坂の上の雲』が書かれた時期になお健在であり、司馬遼太郎は直接聞き取ったことを作品の中に書いた・・・のであったように記憶する。

***

 福岡での面接授業から帰って5万分の一地図を買い込んだことは前に記したが、その時、神田小川町の小さなビルの上の方にある「内外地図」のカウンターに、『しまなび』というタイトルの冊子が積んであった。手にとってみるとこれが綺麗で面白く、パラパラめくっていたら「無料ですので、どうぞお持ちください」という。ウソでしょ?

 A4判で80頁あまり、第1章「日本の歴史と島」、第2章「島の自然」、第3章「島の文化」、第4章「島を体験」という構成、豊富な地図と写真に的確な解説で実に楽しいパンフレットに仕上がっている。編集発行は公益財団法人・日本離島センターとある(HP「しましまネット」http://www.nijinet.or.jp/)。日本宝くじ協会のサポートによって無料頒布に至ったらしいが、この一冊はそれなりの対価を払う価値が十二分にある。

  

 「日本は島国」という時、領土全体を矮小なひとつの島のようにイメージし、米・豪・中・露といった対岸の大陸国家と比較するのが普通だと思うが、『しまなび』の視点でひとつひとつの島の個性に丹念に注目していくなら、われらが国土は数千の個性群から成る豊かな複合体に姿を変える。「島国万歳」などとつぶやいているところへ、6月5日に「謎かけ好きのY」さんからコメントをいただいた。

 「韓国には山がないので、山登りに惹かれる韓国人旅行者が引きもきらない」という話を、博多でも伺ったと記憶する。そう、島国日本は、世界に冠たる山国でもある。それはとりもなおさず、森の国でもあるということだ。田植え後の美しい水田風景が一方の原型なら、そこに影を落とす故郷の山々がもう一方の原風景である。水平の広がりと垂直の高まりが、おらが国土の衣装なのだ。

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・タイトル:空を見上げて

 さて私は今、玄界灘に浮かぶ日本書紀の国産み神話にも出てくる「対馬」という、面積は日本の島では10番目に大きな島に来ています。韓国が近くて古くから朝鮮半島との交通の要衝で、今は年間20万人近い韓国人観光客が訪れ、風光明媚な山々とリアス式海岸の大自然の景色、海の幸に恵まれ、人口はわずか4万人で、そして地元の方々は大変親切です。

 博多の広い空をお褒めいただいた記事を嬉しく拝見しました。博多よりさらに、この対馬の何の遮る人工物もない川の辺りで夜空の天の川ので様な蛍を見ました。蛍の光の瞬きが、夜空の星との境が区別出来ないほど星も多くて星の瞬きも美しくまた、川面に映る蛍の光までもが一連の景色となって…新緑の匂い、川のせせらぎ、目に優しい月明かりと共に私の身体の隅々までスーっと染み入りました。

 何百年も、ひょっとして何千年も前からこうした景色と匂いが、変わらずここにはあるのかもしれない。その偉大なる自然に抱かれている感覚、タイムマシンにでも乗って宇宙の一部に帰ったような不思議な感覚になりました。そして、無数の幻想的な光は、時々私たちの手の届くか、届かないくらいの頭上を舞うのです。

 まるで亡くなった両親や友人、祖先…が漂って、「見守っているよ」と、言ってくれているようでした。

 Ω

 

 


牡牛の駆けたヨーロッパ

2016-06-25 23:25:37 | 日記

2016年6月25日(土)

 外電 ~ などというのが既に死語か ~ に対する反応としては、まったく異例のものである。患者さんたちまでが、病状報告や相談事の合間に一言残していく。「イギリスが」「離脱ですね」「EUを」・・・

 解説は巷に溢れており、それをどう整理していったものか見当もつかない。ただ、今朝の朝日一面に若干の違和感を覚える。ヨーロッパ総局長という立場の人が「『理念先行型』の統合終幕」と題し、各国エリート主導の「人々の手の届かない場所で決まってしまう政治のあり方」が強い反発を招いた結果として、このことを解釈している。そういう弱点があり、そういう反発があるのは事実だろうが、これはそれなのだろうか、ね?現地事情に詳しい人の所説を尊重するにやぶさかではないけれど、何だかしっくり来ない。そもそも強力な理念なくして、大きな統合ができるものだろうか?EUはそれほどに「理念先行」だっただろうか?この種の批判をいちばん喜ぶのは不寛容な右翼勢力である。この人々は自身の排外主義のイデオロギー性を否認し、それが「郷土愛や愛国心の自然な発露」であることを主張する。決まって槍玉に挙げられるのが「お高くとまって現実を知らないエリート」だけれど、むろん実際には双方の側にそれぞれの「エリート」があり「指導者」がいるのに違いない、等々。

 まずは結果のきわどさと複雑さを記憶しておきたい。イギリス人のおよそ半分は離脱に反対だった。イングランドでは離脱派が優勢だが、スコットランドでは残留派が優位を占めた。イングランドでもロンドン周辺は残留、それ以外は離脱にそれぞれ賛成である。若者は残留、年長者は離脱に傾き、富裕層は残留、貧困層は離脱に親和的。若者は総じて現時点で富裕とはいえない人々だから、この傾向性には興味深い「ねじれ」がある。よほど注意して読まないと、イギリス人の中の誰が何にどう反応したか分からない。「イギリス人が何かを決断した」という言説自体が常に勝ってフィクションであることは、数字の僅差とともによく意識しておく必要がある。政治的決断はいつだってフィクションであり、フィクションを事実と見なす約束事の上に歴史が築かれていく。

 直観的には「残念」であり、「マズい結果になった」と思う。ただ、ヨーロッパは昔っからこんなことを ~ 融合と解体、連合と離反を ~ くり返してきた。そしてヨーロッパという集団の歴史は、国民国家の歴史よりもはっきり長く、そして大きいのである。結果を聞いてすぐ考えたのは、スコットランドがどうなるかということだった。昨年のスコットランド分離に関する投票の時点では、「EUの有力メンバーとしてのイギリス」が前提としてあり、その構成要素に止まることの経済的・社会的利益が「非分離」の選択を促したはずである。今この現実を見れば、そして今回のスコットランド人の投票行動を見れば、「イングランドを離れてEUに付く」という発想はむしろ必然とさえ思われる。そうなればイギリスのEU離脱はEUの解体を促進するどころか、逆に小さな単位による大きな集合体形成へ向けての追い風になる可能性すらあるだろう。鍵を握るのはスコットランドかもしれない。

 経済的な打撃はもちろん心配だけれど、それ以上に懸念されるのは、ヨーロッパが「不寛容」へと大きく傾斜することである。「寛容」と「不寛容」の闘いは、人類の精神史を貫くひとつの軸とすら言えるかも知れない。この闘いにおいて、「他人事」というものは基本的にあり得ない。S先生の表現を借りるなら、すべての人間にとっての自分事なのだ。

 こんな時に思い出しておく意味があるかどうか分からないが、「ヨーロッパ」の語源って知ってました?答は下記、例によっての Wiki頼み。

「エウローペーは、テュロスのフェニキア王アゲーノールとテーレパッサの娘で、美しい姫であった。エウローペーに一目ぼれしたゼウスは誘惑するために、自身を白い牡牛に変える。エウローペーが侍女と花を摘んでいる時に、白い牡牛を見つけその背にまたがると、その途端白い牡牛はエウローペーをクレータ島へと連れ去った。そこでゼウスは本来の姿をあらわし、エウローペーはクレータで最初の妃となった。連れ去る際にヨーロッパ中を駆け回ったため、その地域はエウローペーの名前から「ヨーロッパ」 (Europa) と呼ばれるようになった。」

(https://ja.wikipedia.org/wiki/エウローペー)

 何もテュロスからクレタ島に渡るのに、ヨーロッパ全土を駆けまわることもなかろうに。目黒から恵比寿へ行くのに、わざわざ山手線を一周した見当だ。世界伝道を志した後年のパウロなどは、さだめしこんな乗り物が欲しかったことだろう。それにしても元気だこと、よっぽど嬉しかったんだね!

 

 Ω


傾聴がなぜ有効なのか?

2016-06-23 21:43:35 | 日記

2016年6月23日(木)

 H家連(家族会連合会)で「傾聴」について話をさせてもらう。2週間で5回講演したことになるが、あまり自慢にはならない。スケジュール管理がうまくできていない証拠というものだ。

 今回も主催者がよく人を集めてくださった。主催者の想定以上であったことは、用意された資料がすべて配布されて不足をきたしたことで分かる。「傾聴」というテーマがそれほど人を引きつけるということか。

 

 しかも今日は「家連」の集まりだから、当事者家族がこの人々の中核である。日頃と違った厳粛な思いも必然というものだが、例によって集まった人々の熱意がちょっとしたストームを作りだした。今日いちばん印象的だったのは、「近しい間柄であればあるほど、傾聴は難しい」と伝えた瞬間の反応である。それまで静かに、ひょっとして退屈しているのではないかと思われる静かさで聞いていた百何十名かの人々が、この瞬間一様に笑い崩れた。「反応なさいましたね、皆さん、経験なさってるのですね。」また笑い崩れる。皆そのことで悩んできたことが、はっきりと示されている。

 質疑応答の時間、後ろの壁際に座っていた若い男性が手を挙げた。

 「僕は当事者ですが、おっしゃるとおり家族の話が傾聴できなくて、イライラしたり腹立てたりします。何かいい方法はありませんか?」

 僕は「当事者の話を家族が聴けない」という状況について話したのだ。彼はそれをクルリと反転させた。正しい反応であり、嬉しい反応である。

 「相手を家族ではなく、同居する他人と思ったらいかがでしょうか?」と咄嗟の答え。会場に笑いの渦。

 「いえね、息子だと思うから腹が立つんで、近所の若い衆が遊びに来てると思ったらアタマも冷えるかと、このところ思ってたもんだから」

 「わかりました、やってみます!」

***

 会場は横浜ラポール、膝を痛めて封印しているものの、愛してやまない鶴見川のジョギングロードはすぐそこである。午前中の雨模様が、講演を終えて出たときにはみっちりした晴れ間に変わっており、暑さは承知で久々の散歩に出かけた。

  → 

 綱島まで正味70分ほど、6km、8,000歩ぐらいか。ほんとはもっと速く歩くのだけれどね。帰宅したら秀策の打碁集が届いていた。とにもかくにもこの2週間を越えた自分への、ささやかな御褒美である。

 Ω


「興味津々」

2016-06-23 08:26:54 | 日記

2016年6月23日(木)

 森林文化協会発行、森と人の文化誌「グリーン・パワー」、7月号の表紙写真が最高!

 二羽は「旅立ちの準備をしているアオバズクの幼鳥」だそうで、御覧の通り「突然目の前に現れたアブラゼミに、驚きと戸惑いを見せている」のだと。拡大して見てください、向かって左のアオバズクは縮瞳し、向かって右は散瞳している。隣に並んで同じ条件で同じものを見ていて、何でこんな違いが出るのだろうと、そっちのほうにも不思議を感じる。

 何しろ愉快で温かい。机の前に永久保存、ヘタレの即効治療薬である。

 

 『興味津々』市川節子(全日本写真連盟会員) 「いつまでも守り続けたい日本の自然」写真コンテスト、2015年度最優秀賞作品

 Ω


ひょっとして・・・

2016-06-22 10:49:10 | 日記

2016年6月22日(水)

・ 米海兵隊が内部資料に書いた「沖縄にいる理由」

(http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e7%b1%b3%e6%b5%b7%e5%85%b5%e9%9a%8a%e3%81%8c%e5%86%85%e9%83%a8%e8%b3%87%e6%96%99%e3%81%ab%e6%9b%b8%e3%81%84%e3%81%9f%e3%80%8c%e6%b2%96%e7%b8%84%e3%81%ab%e3%81%84%e3%82%8b%e7%90%86%e7%94%b1%e3%80%8d/ar-AAhpinx?ocid=spartandhp#page=1)

 筆者はフリーランスの屋良朝博(やら・ともひろ)氏、よくぞ書いてくださったと思うが、この名前が僕らの世代に直ちに連想させるものがある。(同世代のすべてが、という意味ではない。僕の連想の背景に「世代」があるということだ。)

 屋良朝苗(やら・ちょうびょう)氏、沖縄占領時代を通じて唯一人の公選された主席、「本土復帰」後の初代沖縄県知事。この父祖の志を継ぐものでもあるだろうか。朝博氏の写真はネットで見ることができる。見すえる眼差し、引き締められた口元、朝苗氏そっくりのように思われる。

 Chobyo Yara.JPG

Ω