散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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8月15日の特大アッパレ

2017-08-15 07:39:06 | 日記

2017年8月15日(火)

 72年前(酉年!)のこの日は、晴天の暑い日だったと聞いている。松山は昨夜ひさびさの雨、明けて降雨は止んだが霧がかったように一面が白っぽい。先日トルストイの原文について気になることが生じ、海外滞在中のT君と久しぶりにメールをやりとりした。時節柄また彼との間柄から、話題はおのずと核廃絶等に流れる。収拾のつかなくなった僕の混乱を鎮めた彼の結句:

 「全く同じことを考えていました。そして今日、被爆者・張本氏の主張に敬服しました。」
  http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2017_0814.html?utm_int=news_contents_news-closeup_0 (NHK NEWS WEB 2017年8月15日 WEB特集 最後の伝え手として張本勲さんに聞く)

***

 在日としての自分について語る張本さんは記憶にある。しかし被爆体験については長く固く封印して来られたのだ。広島出身ならばもしやと思ったことがあったが、今日まではっきりとは知らなかった。こんなにもつらい経験をなさったのか。

 「8月6日、8月9日はカレンダーから消してほしい」と願った彼は正直である。九州の小学生からの手紙を読んで意を翻し、語ることを始めた彼は勇敢である。敬服し脱帽する。

 在日という状況を考えるとき、被爆と核の問題はいっそうの錯綜と葛藤を加えざるを得ない。しかし張本さんの率直一途な足跡の中で、それらはいつかどこかに振り落とされてしまったようにすら思われる。あるのはただ核と戦争に対する憤りと悔しさ、それだけだ。ここに一人の大きな先達があり味方がある。

 被爆者は「犠牲者」ではなく「身代わり」なのだと張本さんは主張する。恐ろしさと有り難さで身が震えるようである。かつてT君とやりとりした redemption という言葉は、まさしく「身代わり」という意味をもっていた。

 僭越ながら張本さん ~ 張(ハリ)さんに、特大の「アッパレ」を献上したい。

Ω


敵と味方

2017-08-14 15:31:34 | 日記

2017年8月14日(月)

(承前)

 この種の番組を見てどう感じ考えるかは人それぞれだが、そもそもそんなもの見たくもないという向きが多いのだとすれば、やっぱり公共放送でしつこく流す意味はあるのだろう。その点だけは某テレビ局を支持応援しておく。受信料徴収の感じの悪さは半世紀前から少しも変わらず、おかげで下宿生活を始めたての当家の未成年児も良い社会勉強をしたようだけれど。(うちはちゃんと払ってますよ、念のため)

 受け止め方を規定する個人的な事情として、母の兄がサイパンで戦死したという事実を既に何度も書いた。父方の祖父は中国戦線で10年も戦わされ、父は父で敗戦時18歳の旧軍属という設定のおかげで相当な苦労を舐めている。戦争は父の家にも母の家にも敵(かたき)であり、そのせいかどうか誰が敵で誰が味方かと言うことを昔からよく考えた。今でも考える。

 いつまでもそんなことにこだわるのは愚かだというなら、喜んで愚者に甘んじよう。重慶でのサッカー日中戦が大荒れに荒れたのは2004年のことだった。こういう反応が良いとは少しも思わないし、中国と中国人に対して望むところは多々あるけれど、「そんな昔のことに、中国人はまだこだわってるのか」という声があったとすれば、これには反対である。彼らは確かに執拗だが、翻ってこちらはあまりにも早く忘れすぎるのだ。

(重慶サッカー事件 http://www.asahi.com/sports/soccer-japan/asia-cup2004/TKY200407310310.html)。

***

 『囲碁××』という雑誌があり、そこに『原爆下の本因坊戦』という記事が載ったことがある。碁打ちは碁を打つのが仕事だから、戦時下でも身体を張って碁を打つ。奇しくも1945年8月6日、広島郊外で第3期本因坊戦の番碁第2局が打たれていた。橋本宇太郎本因坊に岩本薫七段(当時)が挑戦したもので、8時15分には既に碁盤に向かっていたらしい。折からの爆風で一同なぎ倒され傷を負った者もあったが、対局は続行され岩本七段が勝った。その後、敗戦後から翌年にかけて後続局が打たれ、岩本薫和・新本因坊が誕生している。

 興味深い記事ながら、原爆を投下した爆撃機がB25とか何とか間違って記されていた。当該号には詰め碁問題の疑問もあったのであわせて編集部に手紙で問い合わせたところ、すぐに返事が来た。御丁寧に囲碁の解説本まで添えてあったが、文面を一読落胆した。

 「御指摘の通り正しくはB29でした。編集部の全員が戦後生まれということもあって、気がつかず云々・・・」

 どうやら質問した僕のことを戦前・戦中の人間と決め込んでいるらしい。はばかりながら敗戦から干支が一巡りして生まれた立派な戦後っ子、飢餓を知らない最初の世代である。些事のようでさにあらず、この編集者の愚かさはなかなか念の入ったものだ。

 その一、誤りを指摘されたら「御指摘ありがとうございます、勉強が足りませんでした」で十分だ。相手を年寄り扱いするような、つまらぬ言い訳をするものではない。今時サービス業の常識かと思ったが。

 その二、これがここでのポイントだが、編集者は「戦後生まれがB29を知らないのは当然」と思っている。大きな心得違いで、世代の問題ではなく当人の見識と素養の問題に過ぎない。物を知らない人間に限って、世代のせいにしたがるものだ。

 実際、僕の周りの同世代の(つまり戦後生まれの)男子でB29を知らないものなど一人もなかった。それは米軍の圧倒的な強さと、抗うすべのない強暴な空襲の象徴として年長者が常に言及する一種のマジック・ワードで、「びいにじゅうく」という音として戦後生まれの僕らの耳にもすり込まれた。B29とアメリカザリガニは、強すぎるがゆえに憧れすら抱かせる強烈なシンボルで、それが何をしたか知ったときには底知れぬ恐怖と憎しみの対象となった。沖縄・嘉手納基地から北ベトナムへ往復爆撃したB52は、その後継機である。

 戦後も幅があるから年齢が下るにつれ急速に認知度が落ちるのは当然だが、単に爆撃機とせずに「Bなにがし」と記すからには、その機種名が重要との直感あってのことだろう。実際には彼(ら)もどこかで聞いていたはずなのである。それならいい加減な訳知り顔をせず、調べるなり訊くなりするものだ。せめて指摘された後には若さのせいにする(実は若さを誇っている?)のではなく、知識の欠如を恥じるほどの廉恥心を示してほしかった。

 「囲碁雑誌だからB29はカンケイない」とは僕は思わない。それはすべての日本人にカンケイあることだったし、原爆の爆風を受けながら碁を打ち続けた先人の逸話を敢えて書こうというなら、なおのことである。こんなところにも、日本人のお気楽な忘れっぽさが顔を覗かせていないか。サイパン島に観光旅行して海の青さばかりを楽しみ、そこに眠る5万柱の同胞の霊に一瞬の祈りすら捧げようとしなかった、わが友人の愛すべき呑気さに通じるものである。

 その後しばらくして、この雑誌を購読するのはやめにした。

***

 敵とか味方とかいうのは、人のことではなく、心のありようだと仮に考えよう。その場合、「忘れっぽさ」と「無関心」が実は最大の敵ではないかと思われる。執拗に覚えていて決して赦そうとしない頑迷に比べれば、「忘れっぽさ」「無関心」はまだマシとも言えそうだが、さてどうだろうか。どちらがとは言わない、違う形の二つの敵ということか。怒るべき怒りを怒った後、赦しへ向かうのを理想としたい。むろん簡単ではないこと、敵は我が内にある。

 あわせて思うに、重慶を悔いることと、東京はじめ日本中のあらゆる都市とりわけ広島・長崎を襲った暴虐を憎み憤ることは、別のことではなく一事の両面のはずである。しかし実際には、重慶を強調する論者は東京を顧みず、東京を悼む人は重慶を忘れがちなところがある。両者を等しく見据え、怒り(いかり)を祈り(いのり)に昇華できる人があれば、最も頼もしい味方というべきだろう。

 38年後に日本を訪れて心の闇と直面した元パイロット、彼が「爆弾の下に人がいたことに気づいた」時、彼の中には一人の味方が生まれつつあったのだ。敵とか味方とかいうのはそういうことだ。だから敵の中にも味方があり、味方の中にも敵がある。味方を信じて戦うこと、甲子園球児ではないけれど。

Ω


夏が来れば思い出す

2017-08-13 07:29:56 | 日記

2017年8月13日(日)

 8月9日(水)午前11時2分の鐘、今年は移動中の車の中で聞く。500km行程ほぼ中間地点の浜松までは3時間ほど、そこから関西のゴールまで5時間半を要した。着いた先では室内に蟻の行列ができている。幸いヒアリではないようだ。翌日、別件のついでに聞きあわせたところ、今年は蜂・蟻が至るところで大発生し、業者はてんてこまいだそうである。今年だけのことか、猛暑・豪雨などと連動した気候全般の長期的な変化によるものか。ベイト剤というものを使って駆除するのだと教わり、教授料を献納した。

 帰省ラッシュのピークを避け12日(土)に移動、これは330kmほどである。しまなみ海道は太陽を背に受けて今治側から北上するのが良いと信じていたが、そうばかりでもない。生口島の標高の高いところで南側の眺望が開け、運転席から横目で垣間見て歓声が漏れた。毎度一つ覚えで恐縮ながら、芸予諸島の地形そのものが天下の奇観である。海の中に島々が浮くか、島山の間を無数の水道が貫くか、陸の濃緑と海の紺碧が競う境を砂浜の白が縁どり、毎年通って飽きるということがない。

 夏が来れば思い出す、故郷の原風景である。

(PC環境の制約で助手席からの写真掲載できず。後日を期待されたし。)

***

 無事に着いた夜、NHKスペシャルが「本土空襲全記録」を放映した。この番組があることは知っており、できれば見たくなかったが、両親が食堂のテレビに吸いつけられたようになっている。肩越しに覗くようにして、結局八割方見てしまった。これまた、夏が来れば思い出さずにすまないことである。

 見たくないのは内容が分かっていたからだ。未公開の貴重な資料発見と銘打つものの、やはり概ね既知のこと。しかし番組構成は上の出来と思われる。当初、軍需施設のピンポイント爆撃を計画したものが、日本上空の気流の不安定もあって成果上がらず、指揮官が更迭され新たに登場したのが悪逆非道のカーチス・ルメイ。この御仁については、当ブログで二年ほど前に詳しく紹介した(2015年9月26日『半藤氏のオピニオン / カーチス・ルメイ叙勲のこと』)。ドイツ戦線での赫々たる実績を踏まえルメイは無差別爆撃へと方針転換、その最初の戦果が1945年3月10日の東京空襲10万人殺戮である。その余は詳説に及ばず、実施に先立ち「ジャップが住む木と紙でできた小屋」を再現して燃焼実験を繰り返し、殺傷効果を高め消火を困難にする粘稠な油を採用するなど、準備作業の冷徹な合理性は見事なばかり。

 ルメイ個人に迷いはないが、当初は米軍の中にも躊躇があった。その空気を変えるにあたり、重慶が重要な役割を果たしたことを番組は指摘する。1939年から1941年にかけ、国民党政府の当時の首都であり内陸の要害である重慶を日本軍は繰り返し爆撃した。当初は戦略・政治施設の捕捉撃滅を目的としたが、効果上がらず途中から無差別爆撃へと拡大したことも全く同じ。ただし番組が「人類史上最初の無差別爆撃」と告げた(ように聞こえた)のには疑義あり、1937年4月のドイツ軍によるゲルニカ空襲にその栄誉(!)が帰せられるものかと思う。いずれにせよ重慶で日本軍のしたことが、日本で米軍がすることの正当化に用いられた。今回知って驚いたのは、極東軍事裁判において「重慶爆撃は連合国による日本爆撃と相殺され起訴されておらず、無差別爆撃を唱え百一号作戦と百二号作戦を推し進めた井上成美海軍大将なども戦犯指定はされていない」との記載である(https://ja.wikipedia.org/wiki/重慶爆撃)。大量虐殺の罪過の相殺!悪魔の愉快そうな笑い声が聞こえてくる。

 人の良心は戦争のさなかにも、か細く働き続ける。しかし憎しみの連鎖がいったん細い堰を切ってしまえば、あとは止まる瀬もなく流される他はない。数ヶ月後には米軍は「日本に民間人はいない、老若男女すべてが戦争遂行に関わっている」と公言した。空きっ腹を抱えて竹槍訓練を行う婦女子のことだろうか。どだい全体戦争はそういうものである。そして胸の悪くなるようなルメイの発言録の中で、以下の記載ばかりは真に全く正しいのである。アメリカ人は義戦 just war を信奉する集団で、対独・対日戦争は聖の聖なるものと信じられているから、ルメイの言葉は実は彼らが最も聞きたくないもののはずだった。曰く、

  「軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考える。だが、戦争はそもそも全て道徳に反するものなのだ。」

 番組に戻ろう。「島」の戦いと本土空襲が連動していることの指摘も、的確至極な着眼である。1944年6月にサイパンが落ちてB29による本土空襲が可能になった。B29はヨーロッパ戦線で空の要塞と恐れられたB17の航続距離を延伸した進化版で、サイパンから東京まで2,400kmの距離を超えて往復飛行することができた。これが大都市空襲の背景。

 さらに硫黄島が1945年3月に陥落。日本本土まで1,200kmと急接近し、より小型の戦闘機や爆撃機の往復が可能になった。戦闘機の援護があればB29は低高度で進入でき、爆撃の精度も格段にあがる。こうして中小都市空襲の条件が整った。かてて加えて硫黄島では日本軍の反撃が巧妙かつ熾烈をきわめ、真珠湾以来はじめて勝った米軍の死傷者が全滅した日本軍のそれを上回った。これに対する米国人の報復心はすさまじく、もはや中小都市の無差別爆撃に良心の痛みを口にするものもなくなった。すべて悪魔の冷徹な筋書き通りである。

***

 よくできた番組だが、ひとつ残念なこと。件のルメイに対して、日本国政府が勲一等旭日大綬章という最高の栄誉を与えた事実を紹介してほしかった。さすがに、日本全土を空襲で丸焼きにしたことに対してではない。戦後「航空自衛隊の設立に貢献した」ことが叙勲の理由である。詳細は上述の当ブログ記事に譲るが、自国民の殺戮に責任ある立場で寄与した人物にかくも大きな栄誉を与える政府という不可思議な代物が、地球上に他にあるかどうか僕は知らない。

 いっぽう、ひとつ感心したこと。B29の搭乗員の一人を見つけ出し、95歳の彼にかなり突っ込んだインタビューをしている。戦後38年経ってと言っただろうか、彼が日本を訪れた。道行く幼い子どもがピースサインをして見せたとき、心の中で何かが崩れた。

 「自分が爆弾を投下したところには人間がいたのだということに、このとき初めて自分は気づいた。」

 「そこに人がいるなどと思うな」というのがルメイの鉄則、その呪縛から彼は解かれたのである。見上げる空からB29が、自分めがけて爆弾を投下するような気がした。名状しがたい悲痛な感情が彼の中にこみあげてきた・・・

(続く)

Ω

 


ゲコゲコ・・・

2017-08-08 09:23:12 | 日記

2017年8月8日(火)

 「なんで桃蛙(とうあ)なの?」

 「前は青蛙(せいあ)にしてたんだけどね、青ざめた蛙じゃアオダイショウに睨まれてるみたいだろ。ほろ酔いでほっぺたほんのりの感じで。それに桃が好きだから、霊力があるというので、イザナギも桃に助けられただろ」

 「桃は福島」

 「世代だなあ、桃といえば山梨・岡山、今は福島を外せないよね。でも愛媛も桃は美味しいんだぜ」

 「松野町とか」

 「昔は興居島(ごごしま)が有名だったらしい。松山沖の正面に見える島ね。ジジババとか若い時は舟遊びに行ったみたいだよ。」

 「蛙も好きなの?」

 「まあ何となく、小さい頃に勉強とかバイオリンとか、始めると熱中するけど、腰が重くてなかなか始めないもんだから、『おんびき跳んでも休みが長い』ってオフクロにからかわれてさ、田舎の言い回しだって」

 「おんびき・・・」

 「びき(蛙)の丁寧表現だよね、『おんびきさん』などとも云って、身近な生き物にも敬意を払ったんだな。そうそう『蛙鳴蝉噪』って読める?」

 「知ってる。オヤジが昔やってた同人誌のタイトルでしょ、『あめいせんそう』」

 「『せんそう』か『ぜんそう』か、そっちは端折って『蛙鳴』でやってたのね、どちらも『訳の分からないものがガアガアやってる』ってことだから」

 「ふうん・・・時にね、蛙のほろ酔いって楽しそうだけど、実際には蛙はアルコールに弱くて、すぐにひっくり返っちゃうんだってさ」

 「へえ、ほんとかい?」

 「うん、何しろ蛙はゲコゲコゲコ・・・」

   ・・・国語の先生に一本取られた。

(http://mikihito.waraidama.jp/search.php?search=トノサマガエル より拝借、「ハウリンウルフ」とても良い)

Ω

 


雲とはんのき(宮沢賢治)/それでも花のつもりかな(一茶)

2017-08-08 05:31:13 | 日記

2017年8月7日(月)

 雲とはんのき

  雲は羊毛とちぢれ

  黒緑赤楊(はん)のモザイック

  またなかぞらには氷片の雲がうかび

  すすきはきらつと光つて過ぎる

     《北ぞらのちぢれ羊から

     おれの崇敬は照り返され

     天の海と窓の日おほひ

     おれの崇敬は照り返され》

  沼はきれいに鉋をかけられ

  朧ろな秋の水ゾルと

  つめたくぬるぬるした蓴(じゅん)菜とから組成され

  ゆふべ一晩の雨でできた

  陶庵だか東庵だかの蒔絵の

  精製された水銀の川です

  アマルガムにさへならなかつたら

  銀の水車でもまはしていい

  無細工な銀の水車でもまはしていい

     (赤紙をはられた火薬車だ

     あたまの奥ではもうまつ白に爆発してゐる)

  無細工の銀の水車でもまはすがいい

  カフカズ風に帽子を折つてかぶるもの

  感官のさびしい盈虚のなかで

  貨物車輪の裏の秋の明るさ

     (ひのきのひらめく六月に

     おまへが刻んだその線は

     やがてどんな重荷になつて

     おまへに男らしい償ひを強ひるかわからない)

   手宮文字です 手宮文字です

  こんなにそらがくもつて来て

  山も大へん尖つて青くくらくなり

  豆畑だつてほんたうにかなしいのに

  わづかにその山稜と雲との間には

  あやしい光の微塵にみちた

  幻惑の天がのぞき

  またそのなかにはかがやきまばゆい積雲の一列が

  こころも遠くならんでゐる

  これら葬送行進曲の層雲の底

  鳥もわたらない清澄(せいたう)な空間を

  わたくしはたつたひとり

  つぎからつぎと冷たいあやしい幻想を抱きながら

  一挺のかなづちを持つて

  南の方へ石灰岩のいい層を

  さがしに行かなければなりません

   ハンノキ(Alnus japonica) カバノキ科 ハンノキ属

    ハンノキのそれでも花のつもりかな  一茶

http://arakawasaitama.com/hanaindex/subhannoki.html

 Ω