散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

石丸姓の由来

2018-09-26 10:43:26 | 日記

2018年9月10日(月)

 ・・・この日に書いてあったのが、ほったらかしになっていた。

 20代の頃、中国系マレーシア人の留学生女子に真顔で聞かれたことがあるというのが、話の発端である。

 「丸石という姓は、丸い石ということでわかりますけど、石丸ってどういう意味ですか?」

 答えに窮した。日本人からは出ない質問で、当時は未熟でもあった。今なら考えがある。確信はないけれど。

 「丸」は円・球を意味するほか、別の用法もあるのは周知の通り。本丸とか真田丸とかは城郭の中の比較的独立した建造物、船の名に使われるのもこの「独立した建造物」から来ているのではないか。

 「牛若丸」といった名前、とりわけ幼少児の呼び名に用いられたのは、丸々とした子どもへの愛しみ親しみに由来するらしい。そこから刀剣や楽器の持ち主が、愛用の逸品に「丸」の名を冠するようになった。船名の「丸」もこちらではないかとの説がある。

 さてそうなると「石丸」は、

① 木造主体の日本の建築物の中で、特に石造りの一画を呼んだもの

② そのような建物に住んだりその建築運営に関わったりした人または職種

 といったところだろうか。

 船名ではあり得ない、沈んでしまう。愛称の「丸」の方は「石」一字との組み合わせでは無理がありそうだ。

***

 石丸姓は愛媛県とりわけ中予に多いが、佐賀にもクラスターが存在する。桜美林時代に他学部に別の石丸先生が着任してからは、郵便物がしょっちゅう誤配された。フルネームも所属も違うのに、姓が珍しいので「ああ、あいつか」と決め込むらしい。いい加減なものだ。

 ある時会って話したところ、この人は佐賀の方の石丸で、先祖は鍋島藩に仕えた武家とのこと。刃物を研ぐのを趣味にしておられ、その関係で松山周辺には親しみがあるという。そう言われて初めて砥部という地名の由来を知った。砥部焼の白磁を生む土壌は、良質の砥石の原料でもある。往古にその特産と技量をもって朝廷に仕えた部曲がこの地に存在したのだ。

 そもそも砥部焼の起こりは、大洲藩・九代藩主の加藤泰候(かとう・やすとき 1760-87)侯が藩の財政を立て直すため、砥石くずを使った磁器づくりを命じたことに起源を発するとされる。加藤氏は秀吉麾下の猛将・加藤光泰を祖とするが、その子貞泰が関ヶ原で東軍に属して美濃の本領を安堵され、1617年に大洲へ移封された。何しろ砥石が先、焼き物が後である。

 それにしても伊豫の石丸はどこに由来するものか。砥石の石とは関係なかろう。いつか知りたいと思っていたら、数年前のクリスマスだか誕生日だかに、家人が面白い本をプレゼントしてくれた。『えひめ名字の秘密』というのである。

 著者の調査によれば、石丸姓は愛媛県内での順位が69位、全国では691位*とのことだから、やはり有意に多いのだ。

 * 名字由来 net (https://myoji-yurai.net/prefectureRanking.htm)による

 とはいえ愛媛県内でもさほどメジャーなものではなく、170ページ余りの本にたった二箇所出てくるだけである。

***

① 『朝倉の歴史』によると、石丸氏は、大内義弘の子・吉国を祖としています。大内氏が滅亡したのち、石丸甚左衛門吉富は、朝倉村(今治市)に帰農しました。のちに矢矧(やはぎ)神社の宮司となっています。(P.95)

② 明暦4(1658)年につくられた『明暦松山支配帳』から、この時期の百石取り以上の藩士を列記してみましょう。(中略)二百石の・・・石丸見棟・・・(後略)(P.158)

***

 この二つの記述がどうつながるかは、よく分からない。大内氏が梟雄・陶晴賢に事実上滅ぼされたのは天文20(1551)年で、明暦支配帳までほぼ一世紀の空白がある。①と②の両系統間につながりのある証拠はないが、無関係なら今度は「石丸見棟」という侍(読み方が分からない!)のルーツを別に探さないといけない。

 家の伝説では石丸姓を名乗って僕が14代目という。仮に一代30年とすれば開祖は西暦1500年代半ばの生まれ、20年とすれば1600年代の後半になる。石丸甚左衛門吉富に直接つながる可能性もなくはないが、ちょっときわどいかな。

 あとはお寺の過去帳か。臨済宗善応寺、曾祖父が縁を切っちゃってるので、ちょっと敷居が高いのである。

Ω


団子釣り

2018-09-25 18:02:42 | 日記

2018年9月25日(火)

 今早朝、職場に向かう車中で面白い風習をラジオで耳にしました。

 君津の辺りに「団子釣り」という風習があるそうです。中秋の名月に団子を作ってお供えしますが、土地の子どもたちは他人の家に忍び入って、団子を盗って食べてしまうのだそうです。

 むろん織り込みずみで、大人たちは数の減った団子を見て「あぁ、お月様が団子を召し上がった!」と話しあうのだそうです。まるで日本版ハロウィーンですね。

 お盆に野菜で馬を作ったり、お月見に団子を備えたり、こんな風習が私の子どもの頃はまだ残っていたものですが・・・

***

 僕より少し年長で新撰組の首魁らと同郷、骨っぽい精神科医TY先生からの来信である。なお、インターネットで「団子釣り」を探しても、チヌ釣りの仕掛けぐらいしか出てこない。

Ω


善太と三平

2018-09-25 17:02:16 | 日記

2018年9月14日(金)~9月25日(火)

 成人に達したものだけを数え、母は9人同胞の第三子で次女にあたる。うち5人が健在ながら、いずれも高齢かつ遠方に散らばり、このたび会えたのは3人だった。葬儀に人が集まり語らうのは故人の遺徳、とりわけもともと竹馬の友であった父の末弟と母の上の弟が、多年を隔てて歓談する姿が嬉しい。僕は果報な子どもで、全ての叔父叔母から可愛がられて育った。

 母方のこの叔父は宇和島で社会科の教員を勤めあげたが、別して母を慕ってきたことと承知している。干支が一回り違い、姉というより母親代わりだったと、そこまではよく聞かされた。ただ、会って話せば新しい話題が必ずある。

 「坪田譲治かな、『善太と三平』というのがあらいね(=あるよね)」

 と叔父。

 「あれを姉ちゃんが、『カツタダとカズイエ』の話に替えて、よう話してくれよった。」

 カツタダはこの叔父、カズイエはその弟の名である。

 「そこでじゃ、カズイエとこの息子たちの名前を、昌彦君も知っとろう。上の二人よ。」

 「R太にK平、あ・・・」

 「そういうことじゃ、とワシは思うとる。」

 母は何でもよく話したが、このことは聞かなかった。母自身が気づいていたかどうか。遡ってその時代、母はどこで『善太と三平』の物語を読んだのだったか。

 叔父さん、どうぞ元気で長生きしてください。

【善太と三平】

 坪田譲治(つぼたじょうじ)の小説と童話の主人公。1934年(昭和9)に発表された『すずめとかに』『ひまわり』『けしの花』など、いわゆる「善太と三平もの」といわれる一連の作品に、純真で健康的な兄弟として登場するが、単に童心を描くだけではなく、「子供らしさ」を生きたイメージとして典型的に描き出したといえる。小説『お化けの世界』(1935)、『風の中の子供』(1936)、『子供の四季』(1938)の三部作では、善太と三平が社会との関連のなかでとらえられている。[征矢 清](日本大百科全書より)

Ω


虹の半旗

2018-09-25 16:01:47 | 日記

2018年9月12日(水)~25日(火)

 ジュファーと母親の話を載せた、ちょうどその日がまさかの命日になった。この話はぜひ母にも読ませたかったが、2日前に入院してからはPCに触れる機会がなかったはずである。残念・・・

 12日の水曜日は忙しい日で、もともと会議日であるところへTVの収録が午後から入った。ラジオ科目である「死生学のフィールド」を紹介する広報番組をテレビで作るというもので、8月28日に神谷町の浄土真宗光明寺を訪れたのは、このための取材ロケだった。

  スタジオでロケ映像を確認しながら、Y先生・Kアナとのトークを撮り重ねていく。自分の映像を見るのは何度やってもイヤなもので、それにしても立派なこのオデコは母方の祖父の遺伝なんだよなと自分に茶々入れるが、デスカフェの語らいに参加したデコ坊はそれなり真剣に取り組んでいる。

 2歳で曾祖父、4歳で祖母、6歳で祖父と、父方の不幸が昭和30年代に相次いだ。跡取りの父こそつらかったはずだが、自分の年輪にもその影響が残る。曾祖父のことは覚えていない。祖母には習い始めていたバイオリンを枕辺で聞かせた記憶がある。祖父の死は明瞭に理解し、実に怖くまた悲しかった。

 祖父が死んだと聞いた時、激しく泣く6歳の自分を夕食後の着物姿の父が固く抱いてくれた。「泣いたらいかん、お前が泣くと、お父さんまで泣きたくなる」と頭上に聞こえた。母はこちらに背中を見せ、台所で洗い物をしていた。前橋市南曲輪町(当時)の小さな食卓風景である。

 「死っていうのは理解するものじゃなくて、生き残ったものが相擁して耐えるものなんだと思います」

 などと映像の中で語っている。収録が終わりにかかる頃、松山の病室で変事が起きていた。

***

 父の方は、晴れた日の夕方に前庭を望む玄関前に椅子を置き、目に止まった校正刷りに読み入っていた。前年夏の帰省時に僕が置いていったもので、他でもない「死生学のフィールド」の尊厳死などを扱った章だというから念が入っている。これだけ偶然が重なれば、もう言うことはない。確かに誰かが筋を書いたのである。

 母は4~5日間の検査入院の予定だった。もってきてほしいものを前日父に言づけ、連日の見舞で疲れているであろうから明日は来なくてよい、次は木曜日にと約していた。昼の病院食をすっかり平らげ、歩いて用を足して戻り、小一時間寛いだその姿で旅立った。

 病院からの第一報の呼び出し音を、戸外で読みふけっていた父は聞き逃したらしい。第二報は東京に入り、つれあいが機転で僕に連絡をつけた。折り返しかけた電話に担当医は的確かつ誠実な説明を与えてくれたが、その要点は意識回復の見込みがないことを告げ、蘇生をいつまで続けるか判断を求めるものだった。「父が着くまで」との依頼の意味を、若い担当医は正確に理解してくれた。

***

 その日の便には間に合わないと決め込んでいたが、実は通勤路が天王洲アイルを通っており、モノレールに乗り換えれば早いのである。ただ、この乗換はあまり便利ではない。おまけに松山行のゲートは保安検査場から遠くてと後日こぼしたら、「バスを使わないだけマシ」とたしなめられた。

 ANA599便の座席はそこそこの混雑なのに、隣の窓際席がぎりぎりまで埋まらない。ぽっかり残った卵型の空間に、圧がこもっているような不思議な感覚である。定刻やや過ぎて乗りこんできたまん丸い女性は旅慣れないのか、座り込んだ膝に大きな紙袋を載せている。「空いてるところがないから、ね」と笑うが、これはどかされるに決まっている。忙しそうなCAに声をかけめでたく荷物が片づくと、「ありがとうございます」と礼を言うなりスマホでゲームを始めた。妙に愛おしい気もちがした。

 松山空港からタクシーに乗り際、日赤までの料金を訊くと、丹原出身という朴訥そうな運転手が「2,900円」と即答した。財布の中身はぎりぎりである。彼には99歳の御母堂が健在、ただし辛うじて顔が分かる程度だという。7階の病室前に父と共に歯科医の従弟の姿があり、僕を見て安堵したように立ち上がった。

 気もちよく午睡でもしているような表情、布団の胸が上下していると錯覚しそうな風情である。

 「颯爽と、いってしもうた。」

  父が苦笑した。月曜の朝の虹の脚が、空にかかった半旗であったことをこの時知った。

Ω

 

 


たとへばきみの肩にも乗りて

2018-09-23 22:06:19 | 日記

2018年9月23日(日)

 拝読して、折に触れ口ずさむある短歌を思い出しました。

   死後のわれは身かろくどこへも現れむ たとへばきみの肩にも乗りて
 
 中城ふみ子
 
 今日はお彼岸で父の墓参りに母と妹と行って参りました。
 
 先生、ご家族さま
 どうぞご自愛くださいませ。
 
***
 S様、ありがとうございます。
 まさしく秋のお彼岸でしたね。お天気に恵まれ、よい語らいをなさったことでしょう。
 
 私は右肩にかなり大きな古傷をもっています。10年ほど前からでしょうか、この右肩に鳥がやってきて止まるという幻をもつようになりました。鳥はやがてフクロウの姿に落ちつきました。小さいがずっしりしたフクロウは、そこに黙っていて重みだけを伝える時もあれば、何かを囁いていく時もあるようです。囁きの中に、若くして亡くなった友人たちの声がときどき混じりました。
 
 腑に落ちた心地で訪れを待つことにします。また違う声音が混じるかもしれません。
 時に誰か、拙句にメロディーをつけてくれる人はいないものでしょうか。自分では、どうもうまく行かないのです。
 
 
Ω