一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

1962   岩戸句会第五句集「何」あとがき  片岡余白

2018年06月07日 | 岩戸句会 第五句集「何」

  岩戸句会は平成8年5月13日(月)に熱海市伊豆山・IBM熱海保養所「ユトリウム」で産声を上げ、平成30年4月で22年目を迎えることができました。当日の参加者は雲水先生・水口・笠島・前村・桝本・原口・柳沢(敬称略)そして、余白の計八名であったと記録されています。

 当日は会名を決めたり、開催日を毎月の月曜日にするなどの概略が決まりました。会名も「ユトリウム句会」「老化損塾句会」などを経て、現在の「岩戸句会」になりました。

 会員の資格は、自由に俳句を楽しむ人で、テレビや人から聞いた、本で読んで得た情報から俳句を作るのではなく、自分でやったこと、見たことを中心にした写実的な俳句を作る人。

 出入りは自由、朗かで、明るく、真面目に俳句に取り組むことができる会員であってほしい、という雲水先生の思いの通り、会員の職業は多種多様で、茶道の先生・生け花の先生・絵描さん・能面師さん・経営者・サラリーマン・主婦など明朗闊達な方々で構成され、現在に至っています。

 ここまで長く句会が続きましたのは、発起人の「雲水」先生のご努力と熱意及び、俳句に対するゆるぎない信念、更に会場の提供があります。更に、先生の熱意に引けをとらない会員の皆様のご支援があった結果と思います。

 当会も会員の高齢化が進んでいますが、毎月一回の句会は熱気に包まれ、楽しく面白く、人生の機微を学ぶ場となり、高齢化の実態を忘れてしまう勢いです。句会後は恒例の懇親会があり、いろいろな話題で盛り上がり、時の過ぎるのを忘れ「岩戸窯」に泊めていただくことにもなります。

 余白如きは、句会黎明期から参加しているも、未だ「雲水先生」や会員のおメガネにかなわず「佳」の評価もない、体たらくですが、先生はじめ会員皆様の御恩情で句会の末席に置いて下さる、温かくも厳しい句会の雰囲気が「岩戸句会」の心情であります。

 この句集を、会員以外の方々がお読みくださったことに感謝を申し上げるとともに、是非お近くにお越しの時には、熱海市伊豆山七尾峠の「岩戸窯」をお尋ね下さるようお誘い申し上げます。

  第五句集「何」発刊に際して会員一同心から「雲水先生」に感謝を申し上げると共に、表紙は会員の美部さんにお願いしたことをご紹介し、お礼を申し上げます。

                  平成30年4月吉日   岩戸句会 片岡余白

ヒメジョオン(姫女苑)

 

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1961   ふらり来てふらり帰るや冬の山   雲水

2018年06月06日 | 岩戸句会 第五句集「何」

 十五年前のある日、尻尾を垂らし痩せこけた一匹の幼犬がやって来た。食べ物をあげたところ、そのまま居ついてしまった。モモと名付けたが、忠犬ぶりを発揮し、犬嫌いの女性に「こんな犬なら飼ってもいいわ」と言わしめるほど、我が家のアイドルになった。それから十五年、一度も病気もせず元気に暮らしていたが、ある日突然病気になった。脳梗塞のような状態で半身が不自由になり、歩くのがやっと。小さな段差でも転んでしまう始末。一週間、水も飲まず食べ物も拒否していた。それが水を飲むようになり、食べ物も少しは食べられるようになってきて三日後、突然行方不明になってしまった。不自由な体でそう遠くへは行けないはずなのに、いくら探してもどうしても見つからなかった。

 犬や猫は、死期を悟ると飼主から離れ、自然の中に帰って行くという。野良犬としてふらりとやって来て、潔く去って行ったモモ。見事としか言いようがない。

 「人間もかくあるべきだ」と教えられたような気がする。この教訓は、薬漬けの無用な延命措置への警鐘にも聞こえる。私も、かくありたいと切に願う。

 モモ、長い間有難う。 

 

初鳩の恐み恐み啄めり

目白に蜜柑切って爼始かな

薄氷を犬鼻で割り舌で飲む

どう見ても姉さん女房猫の恋

巣作りに薪ストーブが選ばるる

 

鶯が誘う三時になさりませ

山桜卑しからざる鵯の群

掌の種を啄む巣立鳥

油虫語気がブリブリしておりぬ

敏捷が生き抜くちから金魚の子

 

梅雨明けを初みんみんのファンファーレ

山雀が揺らす山百合開くかに

樹液吸う寄ってたかってたまに喧嘩

敏捷に飛び鈍重に歩し虻打たる

何気なく指を立てたら塩辛とんぼ

 

白玉に霧を捕らえし蜘蛛の網

蝉鳴かず巌にしみ入る雨の音

秋蝉をヒミツと記すカレンダー

街路樹に椋鳥の群収まりぬ

脳味噌を啄まれたり鵙の声

 

心得て流されている秋の鳶

冬が来たよヤマちゃんエナちゃんメジロちゃん

木枯や徹頭徹尾喜ぶ犬

進化論の外にごろんと赤海鼠

薪割りを鳥が見ている冬木の芽 

(岩戸句会第五句集「何」より 小坂雲水

タツナミソウ(立浪草)

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1960   哀しみの砂場に沁みるぶうらんこ   正太

2018年06月05日 | 岩戸句会 第五句集「何」

 鞦韆・ぶらんこ・ふらここ・は、公園など一年中どこにでもあるが、春の季語である。季節感の薄い季語の代表かもしれない。さて、この句の作者の哀しみが、どのようなものなのか、想像する術はない。

 しかし、一般論として、多くの他者である人々に思いを馳せてみれば、公園などのぶらんこに乗って涙を流した多く人々がいただろう歴史は、間違いなくあるに違いない。それを世界中の様々なぶらんこにまで想像が及べば、涙を流した人々の数は計りしれない。(小坂雲水記)

 正太さんのこの句は、第200回岩戸句会で、雲水先生の(天)をいただいたものです。句会報のご批評文を転用させていただきました。正太さんは、自然に囲まれた岩戸窯での句会の雰囲気が大好きで、毎月、遠くから熱心に参加されていました。(天)をいただいて、嬉しそうな笑顔が思い出されます。(石川  薪記)

 

藍瓶の冬日に醸す匂いかな

埋み火の灰足してゆく初あかり

料峭やどれも海向く駅の椅子

壺焼のなぜか男の匂いする

独り膳殻の音する浅蜊汁

 

晩年や眩しきばかり濃山吹

夕ざくら散り急がずに散っている

目覚めれば妄想こなごな梅雨鯰

迷い道遠くにとばす枇杷の種

父の日や母の日失くした子等の来る

 

バス停の風のすきまの祭笛

退院や荒んだ庭に秋の蜘蛛

破蓮や古武士のすがた垣間見る

冬晴や十指ほぐして陶土積む

立ち向かう老いの孤独に玉子酒

 

さし伸べる掌に冬虫のあとずさり

夕凍みや人が沈んでゆくように

初不動厄なき齢となりにけり

元朝や風葬の国はるかなり

匂い立つなべの潮目の新若布

 

リハビリの喉にほっこり春の粥

薫風やなぜか昔の傷うずく

癌告知友起きあがる遠花火

多摩の堰風ふところに藍浴衣

切株は男の椅子ぞ赤トンボ

 

(岩戸句会第五句集「何」より 小宮正太)

バイカウツギ(梅花空木)

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1959   鵜のむくろ喰らう鴉に迷いなし   狭心

2018年06月04日 | 岩戸句会 第五句集「何」

 自然界の習わしである光景を詠んだ掲句に、私は強い衝動を覚えた。この句の要点は、「迷いなし」にある。鴉が迷うはずがないのに、わざわざ「迷いなし」としている。句の終わりに、人間の感受性を込めているのである。

作者は、この言葉を入れることにより、鳥と人間を置き換えて考える様示唆しているのではあるまいか。「人のむくろを人は迷いなく喰らうことができるか?」

 この句、人間社会の「掟」又は「宗教」さらには「人間の不思議」についての問いかけをしている。(石川炎火記)

 

古暦捨てて来福希わんか

佐保姫の裳裾触れたか山笑う

同じ道今年も逢えて濃菫

死に近きアバンギャルドに華のあり

緑陰やみどり児笑みて瞳の青し

 

花の道憩う良夜やハイボール

野川にも「 もじり 」盛んに梅雨暮色

生臭し芽吹き降る夜の静寂かな

蟇百匹組んず解れつ春うらら

御仏の優しき里の田植かな

 

年毎に縮む身丈や盆灯籠

立ちんぼの果ての至福やトリス・ハイ

青鷺の釣り師のごとく佇めり

汗くさき工夫ら美蝶にまとわられ

函南の郷のシュールや曼珠沙華

 

あの花がこの赤の実か烏瓜

おでん鍋底に見えくる小宇宙

さくら・やなぎ枝垂競ひて水面まで

いのち昇る高木の梢一葉まで

父の日の話も無くて八十路かな

 

まどろめるドロ亀動き平和かな

うれしきは早苗田に直ぐミジンコの湧く

生存てるよ獺の叫びは幻聴か

六十年怒り治めずゲバラの眼

新蝶のルリ鮮明に目を射たり

(岩戸句会第五句集「何」より 三浦狭心)

シモツケ(下野)

 

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1958   りんご剥くお前は今も幸せか   遊石

2018年06月03日 | 岩戸句会 第五句集「何」

  私の人生の師匠でもある遊石氏が亡くなって、早二年半が過ぎようとしています。私達にとって大きな損失であると同時に、寂しさを感じ得ずにいられません。奥様を始め御家族に至っては、想像を絶する悲しみがあったことでしょう。ご冥福を祈るばかりです。

 さて、今回句集を作るにあたって、富久子夫人にお願いをしたところ、数ある遊石氏の俳句の中から表題の句を始め、計三句の思い出の句を選んで戴きました。三句共、遊石氏には珍しいご家族の句です。「私は居ないものと思ってくれ」という言葉から始まったお二人の結婚生活。旅館業を夫人に任せて、自由奔放に生き抜いた遊石氏。

  表題の句は、決して口には出さなかった、遊石氏の奥様への感謝の気持ちを込めて作られた一句だ、と思います。数々のエピソードを残された遊石氏は、皆さんにとって、自由人・粋な遊び人と思われがちですが、若かりし頃は文学に勤しみ、その後、文学だけに留まらず、音楽・料理・スポーツと興味を持ったものに対して、常に研究を重ね、実践を繰り返す研究家でした。想像を超えた読書量だったと思います。俳句だけで無く、私たちの生き方に、常に一石を投じてくれた遊石氏の俳句を存分にご賞味あれ。(御守海人記)

 

ねんねこを揺さぶり上げて米洗う

月おぼろ娘の嫁ぐ街を過ぐ

桃にみる球体の無限の羅列

哀しきはその噴水のスパイラル

で有るからして向日葵は爆発する

 

柳刃の切先しかと烏賊を引く

投げやりに焼いた秋刀魚の旨さかな

備えあり憂いも在りて歳の暮れ

会得せり粧わぬ山と粧う山

破荷似合う男の背中かな

 

万緑や洒脱な言葉見付からず

かわたれの毛虫のごとく生きてみるか

その蜘蛛は只揺れながら孤独だった

その人は一つの咳の様に消えた

なでしこの様な少女に径問われ

 

行きずりのマスクの人に会釈され

と云って貴方は蝉時雨に消えた

白日傘一瞥もせず通りけり

八つ口に春の名残の風を入れ

その猫の上に小さくリラが散った

 

菜の花や見つかる様にかくれんぼ

夏大根引く力なし山は雨

咳一つ呼吸器外科の吹き溜り

彼岸花忘れることは罪ですか

死或いは絶望する一つの咳

(岩戸句会第五句集「何」より 秋葉遊石)

キョウカノコ(京鹿の子)

 

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1957   春灯生きる証の句作かな   章子

2018年06月02日 | 岩戸句会 第五句集「何」

  章子さんとの出会いは十六、七年前でしょうか「老化損塾」ゆとりうむ句会」「岩戸句会」と名称は変わりましたが、毎月の句会を、毎回出席とはいかないものの、章子さん同様、楽しみに参加してきた私です。

  作句に励むことは、たやすい事ではありませんが、四季ある故郷に住み、四季を愛でながら五感を働かせ、歳時記を繙き作句に親しむことは、掛替えのないひとときです。

「生きる証」の句作とありますが、折節詠まれた俳句、それは取りも直さず「 生きた証」の俳句と言えましょう。

  この句を、伊藤章子さんの句と知り、以前「句会が何よりの拠所であり楽しみ」と話されていことを思い出しました。「俳句に人あり歴史あり」、春灯の季語が、作者の俳句に対する様々な想いを、更に深いものにしている、と思いました。佳吟と思い選句いたしました。体調を少し悪くされている章子さま。章子さまとの句会は愉しいひとときです。お元気になられて、またご一緒に俳句に興じましょう。

 

揺れ動く今日の心に春の風

名残雪ひとりにもある夕支度

人生の旅いま復路おぼろ月

借景の小島かき消す春時雨

明易しまだ使わずの今日がある

 

梅雨霧の谷という谷埋めつくす

百合の香の独りの闇に抱かれおり

生に飽き世に飽いたとて五月富士

いとおしむ生命のあかり朴の花

炎天下今をどこかに置き忘れ

 

磯宿へ一すじの道月見草

雲海の割れてつり舟通り過ぐ

がむしゃらに家業を継ぐや破れ蓮

友逝くや色なき風の中にいる

おほかたを生きてしまひぬ神無月

 

鰯焼く住所不定の猫の来て

仏壇に置く鬼灯と宝くじ

吊し柿長野の風と届きけり

思い出をすべて包みし紅葉山

笑う時一人と思ふ冬の夜

 

冬ざるる生き残るもの果つるもの

薄墨の衣まとひて山眠る

闇の夜に沈む山寺狐鳴く

世に飽いたとて寒月を愛でている

生と死のささやき交す冬銀河

(岩戸句会第五句集「何」より 伊藤章子)

ナルコユリ(鳴子百合)

 

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1956   サクラ葉は秋鮮やかに再登場   余白

2018年06月01日 | 岩戸句会 第五句集「何」

春の桜花は人々を明るくし、楽しませ希望を抱かせるが、その時期は短く儚い。葉桜になると、多くの人は桜の存在に気を配ることはない。そして、秋となり初冬を迎えると、桜葉は赤黄色に染まり、周囲の広葉樹の葉色を圧倒する。

そして、軽やかに舞い落ちるさまを夕べに見ると、幽玄であり神々しくもある。このような人生の終末を迎えることができることを願っています。

2014年、俳号を「空白」から「余白」に改名いたしました。

 

草木の芽いでよ萌えでよ時が来た

楽し気に桜見下ろす阿波踊り

桜とは咲いて愛でられ散りて良し

散りサクラ握り固めて死の重さ

何時もここ傾斜陽だまり蕗の薹

 

ブランコが春の嵐を乗せている

公園に箒目付けて涼を呼ぶ

みどり葉に守られ紛れ実は育つ

舗装道ひび割れ溝に草生きる

ザクロ花落ちて路上にウィンナ蛸

 

セミが飛ぶ安定悪く不安呼ぶ

セミ出でて異次元世界どう生きる

枯れ葉らの焼却処理は理に合わず

名月が黒い車の屋根に映え

枯れ葉らは風に乗って飛ぶ遠くまで

 

掻き集む枯れ葉の山や万華鏡

枯れ葉食う熊手木の根でヒャックリす

カマキリが秋の陽だまり黄泉の口

良寛が貰ってくれるかこの落ち葉

学童や半袖ズボン寒椿

 

孫が行く日陰の雪を蹴飛ばして

うら寂し枇杷の花にもメジロ来る

冬ばれに洗濯干せる笑顔かな

冬散歩帽子にマスク眼鏡かけ

見つけてね此処にいるよと霜柱

(岩戸句会第五句集「何」より 片岡余白)

テンナンショウ

 

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1955   老木も負けず錦の紅葉かな   貴美

2018年05月31日 | 岩戸句会 第五句集「何」

 私の俳句は、ロータリークラブでお世話になっていた、佐恵さんからお誘いいただいたのが始まりでした。それまでは、俳句とは全くの無縁でした。元々、季節感や観察眼に疎い性分で、語学力も乏しかった、と俳句の世界に入って、改めて思い知らされた次第です。

 雲水先生や句友の皆さんのご指導のお陰で、なんとか俳句っぽいものが作れるようになりましたが、まだ門に入ったばかりの文字通りの入門者です。「拙さは伸びしろ」と勝手に解釈して、長い俳句の道のりをゆっくり道草しながら楽しんでいきたいと思っております。今後ともよろしくお願い致します。 

 

老いた妻お屠蘇で酔ってあなた誰

新年会果てて静かなピアノバー

穏やかに空を仰いで涅槃の日

窓越しの庭の牡丹と日を過ごし

箱根道梅桃桜一斉に

 

左膝痛み治らず春惜しむ

大凧が風に暴れる相模川

梅雨空の雲を間近に八ヶ岳

滝を背に梅雨の晴れ間の露天風呂

山百合をみごとに咲かせ箱根道

 

釣れたのは木屑のみなり鮎解禁

時の日よホームに来たら閉まるドア

父の日のネクタイ今年は何色に

干ばつも大雨もあり土用の日

満場の拍手のごとし紅葉舞う

 

荒肌に新蕎麦つるり備前焼

手に取ればひんやり重し富有柿

機中から鳥の目になり秋の山

秋鯖や父は刺身で食べたがる

冬の浜夏の話題の二人連れ

 

冬構家の主人は何もせず

年の暮長寿秘訣のときめきを

年の瀬に電車の中で寿司ランチ

里は霜富士は肩まで雪化粧

しっとりとお蕎麦屋デート除夜の鐘

(岩戸句会第五句集「何」より 斎藤 貴美)

シモツケ(下野)

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1954   道楽の仕事となって去年今年   沙会

2018年05月30日 | 岩戸句会 第五句集「何」

  かれこれ、雲水先生にお会いしてから十数年が過ぎました。一度陶芸に触れたくて、向かいの山の自宅から噂を聞き尋ね来て、岩戸山の岩戸窯へ・・・。現在も、私の美容サロンの茶碗は、すべて自作の岩戸焼を使用しています。

  俳句は、海老名で雨宮絹代先生が、お客様という縁で始めていましたが、句会がなくなり、ほどなく多留男先生の句会にお誘いいただき、現在に至りました。

 私の俳句は、いつまで経っても五七五の小さな日記です。一句一句、その時その時の情景や風物が思い出されます。上手くなる予定は全くないのですが、思い出作りとしてこれからも続けていきたいと思っています

 

初日記厚きノートの一ページ

それぞれの別れ近づく春隣

東風吹いて波音高き岩の浜

老いること味わい深し麦の秋

げんげ田に踏み込みランチタイムかな

 

オクターブ高きおはよう秘湯の初夏

夏めく日髪結い上げてハグをして

相傘の静けき夜や梅雨の雷  

晴天を掃く如若竹騒ぐ朝

逝く叔父の名付けその日を紫陽花忌

 

短夜や寝息給うも縁の内

どの色も透き通っており喜雨の森

深緑を濃淡にして日射し降る

まだ誰のものでもあらぬ青き柿

夏の夜は話したきこと多くあり

 

送り火も題目も消え日暮れかな

どっすんと日は落ちゆける良夜かな

良き友と美酒を従え羽田発

頬杖と秋の夜長と名画かな

秋高し旅してみたき雲ひとつ

 

住職も塔婆も変わり秋の暮

白露やもう十分と母逝きぬ

帰り花人は心に生きるもの

冬ざれや探しもの又探しもの

沈む日に赤を濃くして冬紅葉

ブロッコリー

 

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1953   転びても起き上がればよし青田道   佳津

2018年05月29日 | 岩戸句会 第五句集「何」

 市の俳句教室に一年通いましたが、進歩どころか少しも興味が湧きませんでした。そんな時、偶然に多留男会に入ることが出来ました。居心地が良くて、九年の月日が流れました。

 今回、雲水先生から句集発刊のお話がありました時、下手な句を載せて良いものかと、一瞬思いました。けれども私の人生で残すものはこれしかない、と思い返しました。

 掲句は、拙いのを承知の上で新米の私の句を、多留男先生が取り上げて下さいました。当然一点も入っておりませんのを「誰も取ってねえんだよなー」と、仰いました。勿論、愚作を承知で励まして下さったのでしょう。

  この時、一人で歩いて行かなければならなくなった自分を励ますつもりの句なのです。あの時の、暖かい光景を思い出しながら、九年間休まず作句して参りました。後、いつまで続けられますことか…。今後共、よろしくお願い致します。

 

水芭蕉ふた株ばかりの白さかな

菜の花の咲きゐる椀の病院食

昼の鯉ぽこんと花を吐きにけり

坂下り風の道あり鳳仙花

簡単服少しおどけし妣の顔

 

海底に骨落としたる夏の夢

高原の霧のしづくを夏薊

一滴のレモン汁効き今朝の秋

ログ屋根を何実ころげる夜更かな

秋蝉の一声空のかぎりなし

 

海霧の暮れて顕はる島あかり

お持たせの菓子の紙音秋うらら

潔く裸身をさらす烏瓜

百幹の杉の霊気や行く秋ぞ

補聴器をはづし素の音秋ひそか

 

霧昇る天の岩屋を開けるごと

片隅にくらす気安さ石蕗の花

凭れきし髪やはらかや七五三

算盤の音のきこゆる冬障子

滴りて雪の笑窪となりにけり

 

梵鐘へ降り込む雪へ返す音

十二月氷砂糖をカチと噛む

仰ぎ見る大注連縄に雪の声

日のひかり風の詩きき掛大根

似顔絵の若き横目に年歩む

(岩戸句会第五句集「何」より 杉浦佳津)

 

スイカズラ(忍冬)

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1952   夕顔や静かに闇が始まりぬ   鞠

2018年05月28日 | 岩戸句会 第五句集「何」

 この句は、初めて句会で皆さんの支持をいただいた句です。特に芸大の平山郁夫さんの事務所にいた村井良一さん(となみ)さんから「僕もとてもいい句だと思い、選句しました」と誉めていただきました。上手く俳句ができないので、いつも止めたい、と思っていたので、とても励みになりました。

 もう一人は、西行さくらさんで、いつも拙い私に、一から色々と教えていただきました。お蔭で、今日まで続けて来られたのだと思います。

本当に、お二人には感謝しています。これからもよろしくお願い致します。

 

美しき早春の旅始まりぬ

来し方の遠くで迎う雛の眼

嫁がない娘待ってる雛の宵

目黒川桜の中を流れけり

春の海群青世界鳶一羽

 

船人の海に突き出る桜かな

女子会やおかめ桜で舌鼓

母の日や天地無用の箱届く

ひらひらと光透かして竹落葉

梅雨晴間メールのパリはすぐ隣

 

紫陽花が雨の光となるところ

さくらんぼ口に広がる初恋よ

夏椿今日の夕日を惜しみけり

水音に耳が慣れゆく月涼し

暫くは蓮一面に身を包む

 

眠れぬ夜庭一面に月涼し

晩秋の唐招提寺甍波

通夜の雨ひととき止みて紅葉散る

晩秋の月の道行く薪能

初冬に息子と見るよディオール展

 

吹き上がり大仏撫でる落葉かな

冬の月重たきまでに澄みにけり

目が覚めて寒月の美にはっとする

冬木立夕日大きく呑み込みぬ

大寒に鵺の名碗美術館

(岩戸句会第五句集「何」より 高杉 鞠)

シラン(紫蘭)

 

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1951   北上はいま翠靄に芽吹く時   さくら

2018年05月27日 | 岩戸句会 第五句集「何」

東北の春は ゆっくりと雪が解け  ゆっくりと近づく。

待ちくたびれた頃、 靄がかかった様に樹木が淡い緑に包まれ

私達女学生は 、紺のズボンから襞スカートに履き替え、生き返った様な心地でした。

人生の後半の旅の句も終着駅が見え隠れしてきた。それが、ささやかな私の足跡となりました。

 

残雪のイーハトーブに風ぁ吹く

子規庵や小さき宇宙に木の芽雨

三春には枝垂桜がよう映える

水底で春光仰ぐ茶室かな

遅桜此処に三年庵跡

 

老桜五木の村を語り継ぐ

五月雨るる匂い立ちおり伎芸天

漣の さす湖や鮎の里

青楓慈悲の阿弥陀がふり返る

烏賊釣りや眠らぬ海の集魚灯

 

紅の花京を乗せ来し湊かな

八丈の闇の闇より青葉木菟

嵯峨野往くただサヤサヤと竹の春

万感の摩文仁の浜や夏の果

戦史館カタカナの遺書夏逝きぬ

 

ひそとして尾花を映す余呉の湖

行き行きて行きて梓の水澄みて

波を吹く江差の軒に冬近し

冬たんぽぽ基地まん中の高速路

漱石忌子規手ほどきの愚陀仏庵

 

やさしさや五島の冬も土までも

冬の川虚構と現の宇治十帖

元寇の防塁埋まる冬の浜

やませ吹き浄土ヶ浜を塞ぎゆく

キッキッとマイナス四度を踏んでみる

(岩戸句会第五句集「何」より西行さくら)

 

ムラサキカタバミ

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1950   死者生者送り送られ花ふぶく   貞次

2018年05月26日 | 岩戸句会 第五句集「何」

  古句に「様々のこと思ひ出す桜かな  芭蕉」桜が咲き出すと、口をついて出る一句である。十四年前、母は癌で亡くなった。余命三か月の母を見舞いに、息子を連れて花冷えの東京の実家を訪ねた。帰り際、立って歩けない母は、私を見送る為、必死の形相で三和土まで這って来た。玄関の外で、雨の中四つん這いになって私を見詰めた。母も私も今生の別れを実感した。冷たい雨の中を、涙を拭きつつ駅に向かった。その後、私は別れの衝撃が引き金となり、うつ病で二年間苦しんだ。今でも、桜の頃に甦る母の姿である。

父と母を看取った姉も、四年前心臓病で急死した。花のふぶく日に、父母の眠る墓に姉の納骨を終えた。

  「年々歳々花相似たり。歳々年々人同じからず」劉廷芝の詩の一節である。普遍的な人の世の有様であろうか。去る桜時、お客様の老婦人とカウンター越しに、故里のこと、父母のことなどに話が及んだ。やがて老婦人は、遠き眼差で「これから何回桜を見られるかしら」と言った。そして、しみじみと「来年お花見が出来たら幸ね」と静かな笑みを浮かべて言った。ガラス窓の青空に、吹かれ流れる花びらを、老婦人も私も無言で見続けた。

 

引き算の生き方願ひ去年今年

手術跡なでてしみじみ初湯かな

春はあけぼの幸せ色の卵焼き

春光や孔雀おごりの羽ひらく

鍵っ子の二階より吹くしゃぼん玉

 

はんなりと暮れてゆくなりさくら山

おぼろ夜やふはりと鍋の卵綴じ

連峰を神と仰ぎて田水はる

耳順の日無垢の眼となる春の虹

薫風や庭師は庭に昼餉とる

 

何するもまず腕まくり梅雨晴れ間

直といふものの涼しき杉桧

白糸の滝百弦の音幽か

何話すでもなく夫婦夕涼み

天地の気息ひとつに桐一葉

 

村を出る川がひとすじ秋の声

菜箸の焦げて不揃ひ茄子を焼く

峡水の剣びかりに鵙の晴れ

清冽な山の日とどく白障子

つっぱりの力を抜かれ干大根

 

足るを知る生活かそけく石蕗の花

生ざまは顔をつくりぬ木の葉髪

一筋の瀬の音を抱き山眠る

無垢の木に墨糸打ちぬ寒日和

ぬきん出し杉のこゑきく深雪晴れ

(岩戸句会第五句集「何」より栢森貞次)

コウホネ(河骨)

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1949   祭りの夜裏で汗するボランティア   清海

2018年05月25日 | 岩戸句会 第五句集「何」

ある夫婦の7年の歩み。

  2011年。真鶴元年、東日本大震災後、夫婦は真鶴へ移住。夫婦の夢はセカンドライフ・・・・・のはずが、夫は会社を辞められず現役続行。

  妻は自身の両親と夫の父親の三人を自宅で看ることに。そんな中、2014年、妻の肺がんが見つかる。しかし、すでに全身転移のステージⅣ。この時、余命四週間と宣告されるも、今も尚、しぶとく生存。

  2016年暮、夫は現役最後の日、会社を出て真っすぐ向かったのは何と床屋。頭を丸めて帰宅し、副作用で髪の抜けた妻に、「これで一緒だよ」と帽子を取って見せた。夫は、この日から妻の介護に専念。夫は、妻の介護ボランティアを志願してくれたのだ。丸坊主はその表れである。

 2017年さて、表題の句は、妻がこの夏、貴船まつりで駐車場整理のボランテイアをしていた夫のことを詠った句であり、この妻というのが私である。

  2018年、もうすぐ八回目の真鶴の春。「清海がいなくなると寂しいね」と夫が言う。その日が一日でも長く伸びますように。夫のボランティア精神=愛に支えられ、二人三脚で前進あるのみ。

 

故郷の赤城山から空っ風

冬空をキラキラ舞ってく花火がドーン

孫二人嫁にもひとつお年玉

坂凍る散歩の足も早まれり

大寒に違わず白き花舞う宵

 

芽柳のやわらかきかな風誘う

菜の花を見ていて勇気湧いてくる

鳥の恋枝しなわせて追っかけっこ

鳥啼きて合図のごとき雨上る

腕を組み悟りを開くか雨蛙

 

はば海苔を干す手休めて道案内

着信音ホーホケキョと鳴く胸ポッケ

味噌溶きて緑鮮やか若布汁

炎昼にうつらうつらと猫になる

青梅や香も実もジャムに閉じ込めり

 

氷水食べ比べたる軽井沢

風揺らぐ誰と結ばん水引草

バッタの仔窓にしがみつきドライブす

鮮やかな赤にうつろう唐辛子

秋の声振り向けば誰いたのかと

 

天空に穴の開きたる冬の星

シクラメン去年の株が花盛り

水仙の香りも強し仏様

こんな夜は手袋買いに仔狐も

寒卵割って朝から頑張るぞ

(岩戸句会第五句集「何」より 大塚清海)

ムラサキカタバミ

 

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1948   移ろいのぽつり秋蝉誰に鳴く   美部

2018年05月24日 | 岩戸句会 第五句集「何」

 三年間の期限付き。2017年夏、ここ熱海伊豆山に単身移住した。東京のマンションが建て替えになったための仮住まい。縁もゆかりもない、顔見知りの犬さえいない、まさに源頼朝、幽閉状態。バルコニーからぽつり海を眺める毎日が続いた。

 季節が秋へと移ろい始めた頃、買い物の帰り道。いつも気になっていた、岩戸窯と書かれた案内板。覗いてみようかなぁ。が、普段はかなりの人見知り。第一印象も自慢ではないが良くはない。しかしその日は何故か、案内板の示す坂を上がっていた。誰もいない、帰ろう、そう思った瞬間、不審者を見つけたのか、怪訝そうに、こちらを睨みながら、窯から降りてくる初老人・ジャン・レノ。手には鎌を持っていた、と思う、多分。ど、どうする俺。

 そして・・・。一時間後には、岩戸窯のバルコニーでビールを飲んでいた。誘われるがままに、テニスや興味もなかった俳句の会にまで参加させて頂いた。

 そこで初めて詠んだのが冒頭の句。それから、沢山の諸先輩方と知り合い、ご懇意にして頂いた。俳句との出会いは、今まで気にも留めなかった雑草や野鳥、月のない闇夜までも、新鮮で楽しい発見を運んでくる。

もう、ぽつり鳴く蝉はいない。

 

ポテチだよ君トーストねと落葉踏む

値段知り急に輝く新秋刀魚

ジオラマの街に灯る秋の暖

傷ぐちに降り染みるかな阿蘇の雪

目を閉じて顎あげた頬にさくら

 

空っぽの頭の上に凧ゆれる

振り向けば君の瞳に初日の出

おでん鍋海山里が肩を組む

君見えぬ桜ことしも咲きました

くつ眺めオール漕ぐ花筏乱れ

 

指先に雫の飾り雨蛙

ケロヨンの頭押さえて丈比べ

夏の果主人のいない水鉄砲

口にも降臨島とうがらし台風

秋の海流木くわえ犬走る

 

虎落笛袖を伸してバイク人

六ぶて六ぶて六ぶててぶくろ

膝さすり靴を磨いて春を待つ

手を振り手を振り木枯し帰る

桜道ドナドナ歌う母移す

 

寒桜目白とカメラが目白押し

夏の果ベンチで並ぶ蝉骸

春告げん独裁者たちへの方法華経

十五夜と気付くとちゃっかり顔をだし

猪くらい友のいびき荒れ狂う

(岩戸句会第五句集「何」より 清野美部)

 

スイバ(酸い葉)

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