さてこの句、どんな状況を想定したらいいだろうか。大きな窓のある室内でもいいが、やはり屋外の方が相応しいだろう。私は、赤坂御苑で開催される春の園遊会のような情景が思い浮かんだ。
それほど上等な会ではなくとも、「花吹雪」の中で多くの友と握手を受けているのだから、きっと余程めでたいことがあったのだろう、と想像するだけで楽しくなってしまった。「握手握手」という繰り返しに、心のこもった握手の暖かみが何度も感じられた。
ミツマタ(三椏) ジンチョウゲ科の落葉低木。
さてこの句、どんな状況を想定したらいいだろうか。大きな窓のある室内でもいいが、やはり屋外の方が相応しいだろう。私は、赤坂御苑で開催される春の園遊会のような情景が思い浮かんだ。
それほど上等な会ではなくとも、「花吹雪」の中で多くの友と握手を受けているのだから、きっと余程めでたいことがあったのだろう、と想像するだけで楽しくなってしまった。「握手握手」という繰り返しに、心のこもった握手の暖かみが何度も感じられた。
ミツマタ(三椏) ジンチョウゲ科の落葉低木。
この句には、作者の万感の思いが詰まっている。7年間の産んでから今日までの子育ての様々な記憶と、20数年前の作者自身の1年生時代の記憶。同じような入学式であっても、現在と過去の全く異なる立場の入学式。人智を越えた過去から未来へと、時間の船はよどみなく進んでいることに想いは至るだろう。
良く考えて見れば、小学生、中学生、高校生、大学生、社会人まで、1年生は様々あるから、読者は様々な解釈が成り立つ。
金槐和歌集には、恒例の二所詣(伊豆山・箱根権現参詣)の折、[箱根の山をうち出て見れば浪のよる小島あり。供の者に此の浦の名は知るやと尋ねしかば、伊豆の海となむ申すと答え侍りしを聞きて……箱根路を、我が越えくれば、伊豆の海や、沖の小島に波のよる見ゆ]と記されている。この沖の小島は、初島だとされている。
実際は「相模の海」と答えるのが正しいのだが、「伊豆の海」では駿河湾も含まれ範囲が広過ぎて曖昧である。但し、「伊豆」と「出づ」を掛けているのが味噌。
モクレン(木蓮) モクレン科モクレン属の落葉低木
(しゅんちゅうの にわのどこかで ひきのこえ)
我が家は、標高400mの峠にあるから、近くに川も池もない。ないが、ヒキガエル(蟇蛙、蟇)がいる。蟇蛙(ガマガエル、ガマ、ヒキ)は、歳時記では夏の季語になっている。
以前は、小さな池を作って水道の水をチョロチョロ流して、セリ(芹)やクレソン、ワサビ(山葵)などを植えておくと、ヒキ殿がやってきて卵を産んでいた。
しかし、それも数年前に止めたが、今でもヒキ殿の声だけはしている。近くの山中に水溜りがあるのだろう。彼等は立派に生きている。
オオアラセイトウ (大紫羅欄花) は、アブラナ科オオアラセイトウ属。
別名ショカツサイ(諸葛菜)、ムラサキハナナ(紫花菜)。ハナダイコン(花大根)
(はなみガム かみつはなかみ したかんだ)
今年の湯河原の桜は、どうも変である。花の付きが悪い。例年の半分くらいしか花がない。向こう側がスケスケである。東京ではそんなことないらしいから、尚不思議。
去年は、樹齢300年の「ホルトノキ」が沢山枯れたから、そのうちソメイヨシノも・・・・と思うとぞっとする。放射能の影響か、などと真剣に言う人もいるが・・・・
さて、この句。昔、早口言葉として「ガム噛みながら、神長クン鼻かんだら、神田クン舌噛んだ」というフレーズを思い付いたが、少しも話しにくくないので没にしておいたのを思い出して、俳句に改作。
馬鹿げた俳句で申し訳ないが、このフレーズ君だけは大喜びだと思います。めでたしめでたし。
フキノトウ(蕗の薹)
「東日本大震災のガレキを見て分かったんだが、ほとんどの物を作る産業は、最終的にはゴミを生産していることになる」
「経済が発展して、国民すべてが豊かな文明的な生活をする、ということは、一見良さそうな話に聞こえるけれど、ほとんどはガレキ、ゴミというマイナス部分だけが残るのね」
「アベノミクスという霞に浮かれている暇は、日本人にはないと思うんだがね」
「その付けは、結局私たち国民が払うことになるのよね」
「払えるうちはいいけどね」
「・・・・・・・・・・・」
ジンチョウゲ(沈丁花)
日本の10倍の人口、25倍の国土面積を持つ中華人民共和国。単に中国というと、日本にも中国地方があってややこしいので、昔のように支那(china)と呼ぶべきだ、と誰かが言っていたがその方が便利。
黄砂の主な発生地はタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠、黄土高原、これだけで日本の国土の5倍以上もあるという。日本への黄砂飛来は、少なくとも数万年の歴史があるから、文句は言えないが、問題はPM2,5だ。2.5とは、2,5マイクロメートル(100万分の2,5)の超微粒子で工場の排気ガスに含まれる煤(すす)が主成分。
50年前の日本にも川崎や四日市の大気汚染があったが、今の中国が当時の日本とよく似ている。
ゼンマイ(薇)
近江の三上山は、古事記」「延喜式」にも記述が見え、また和歌にも詠まれた由緒ある山である。紫式部が 「打ち出でて 三上の山を 詠れば 雪こそなけれ 富士のあけぼの」と詠んだように近江 富士と呼ばれている。又、近江には、近江湖南アルプス、近江金勝(こんぜ)アルプスと二つもアルプスがあるそうだ。
日本に「○○富士」は相当あるが、「○○アルプス」は、どのくらいあるだろうか。又「南アルプス市」という名前を平気で付けるくらいだから、最近の日本人は、日本人としての伝統や文化への誇りやプライドなど喪失しているのだろう。
この句の作者が、そういう安易な命名を笑っていると、私は思う。
雪割草
(くれないを ひざしがほぐし はつざくら)
ここ数日の初夏のような陽気に、あっという間にソメイヨシノが咲き出した。今日、写真に撮ったのは、スミレ、コブシ、モクレン、レンギョウ、ユキヤナギ、エニシダ、ナズナ、ホトケノザ、ムラサキケマン、ツルギキョウ、ハナニラ、ミツマタ、キブシ、ヤシャブシ。
私たちや桜の生命を育むのは、奇跡的な地球と太陽との距離、日射しと水、大気と大地。
オオイヌフグリ ゴマノハグサ科の越年
地球に生命が誕生し、微生物から魚類→爬虫類→哺乳類と進化したという進化論が正しいとすれば、人類の祖先には、ネズミなどの四足時代があったはずで、確かに手は前足だったかもしれない。更に、魚類まで遡れば、ヒレ(鰭)だったかもしれないのである。
つまり「てのひらは元むねのひれ山笑う」でもいいかもしれない。
余談だが、サル類と同様、猟師によると熊の前足は足と言わず「熊の手」と言うそうである、あしからず。
オオアラセイトウ (大紫羅欄花) は、アブラナ科オオアラセイトウ属。
別名ショカツサイ(諸葛菜)、ムラサキハナナ(紫花菜)。ハナダイコン(花大根)
(しゅんぎょうの なみおとたかし ネプチューン)
ネプチューンとは、①ローマ神話の海の神。ギリシャ神話のポセイドンと同義 ②海王星。 ③イギリス海軍の戦列艦、巡洋艦。 ④イギリスの雑誌。 ⑤ナベプロのコントグループ。 ⑥新井素子の小説・・・・・沢山あり過ぎて書ききれないので止めておく。
さて、この句のネプチューンとは、たぶん①の海の神のことであろう。又②の海王星のことかもしれない。何故なら、ホルストの組曲「惑星」の中の、「第7曲:海王星 - 神秘の神。Neptune, the Mystic. Andante – Allegretto」を指しているのかもしれないからだ。但し、静かな曲なのに、「波高し」が合わない。この場合は、「春暁の波音低しネプチューン」が相応しいだろう。
ちなみに、1846年に発見された海王星は,地球と同じ太陽の惑星であり、地球と太陽の距離の約30倍遠くにある。直径は、地球の3.9倍もあり、13個の衛星を持っている。
アオキ(青木)
(うららかに おかまのひとと よばないで)
先日「あなたがオカマのissyoさんですか」と言われて、大いに驚いた。勿論、本人は「焼き物をやっている」という意味で「御窯」と使ったのだろうけれど、「知らない人が聞いたら、誤解されるので窯に「お」は付けないで下さい」とお願いした。
「おっと、すいません、私はホモやレズには、一切偏見や差別意識は持っていない・・・つもりですのでよろしく」と、付け加えておきました。
バイモ(貝母)、アミガサユリ(編笠百合) ユリ科バイモ属の球根植物
湯気の立つものと言えば、やはり温泉饅頭。地元のほとんどの和菓子店が温泉饅頭を製造販売しており、みやげ物店では饅頭を蒸して販売している。
私の家の近くには、熱海梅園、湯河原幕山梅園があるが、最近はほとんど行ったことがない。行くとしても早朝で、それは雑踏や売店、食べ物の匂いを避けるためだ。
しかし、梅と異なり、桜はどんちゃん騒ぎが良く似合う。今年は、東京の開花宣言が、今日明日あたりに出るらしいから、いよいよ関東も春爛漫の到来である。
レンギョウ(連翹) モクセイ科レンギョウ属
そういえば最近、ジョウビタキ、ツグミの姿が見えなくなった。我が家の櫨(ハゼ)の実もいつも間にやら無くなっているから、ツグミが食べたのだろう。
さて、ハゼの実と言えば、和蝋燭(ワローソク)の原料である。1トンの実から、1キロの蝋が採れるという。蝋は、和蝋燭を初め、鬢付け油やポマード、口紅、乳液などの化粧品、ガムなどの食品、クレヨンや石鹸、塗料やインクなどにも使われている。
大陸に帰る鳥たちにとって、ハゼの実は貴重な食料である。鳥たちの体内に取り込まれた蝋の成分は、皮膚や羽根に行きわたり、冷たい風雨から身を守るからだ。
この句の鳥は、「岬山」とあるから、海鳥のユリカモメのことかもしれない。
(このおかた わたしのむこさま さくらだい)
はてさて昔は日本でも、結婚式で初めて相手の顔を見た、なんて話を聞いたことがあるが、そんな時代の結婚式のことだろうか。現代でも、イスラムの世界では同様のことがあるらしい。しかし、そんな結婚だからといって、必ず不幸になるとは限らないから不思議です。
相手を知り尽くして結婚するよりも、全然知らない方が新鮮で、期待感にドキドキワクワクして、却って良いかもしれませんね。