一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

1970   撫子やきっと君らも一年生

2018年06月22日 | 

 私は、高校時代に最も沢山の本を読んだ。そして、乱読した様々な文学書、哲学書、宗教書から、神は存在しないし、天国も地獄も存在しない、と結論した。ニーチェは、それを「神は死んだ」と言ったはずだ。

 ところが最近になって、その考えを否定し、「あの世は存在する」ことにした。キリスト教や仏教とも関係なく、あくまで私にとっての「あの世」である。

 唯今、私は全く新しい「あの世一年生」になった気分である。

ナデシコ(撫子)

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1969   出しゃばらぬ生き方覚えた鈴蘭

2018年06月20日 | 

 一昨年、鉢で毎年咲いていた鈴蘭を花畑に下ろした。去年は咲いたのに、今年は咲かなかった。日当たりは良いし、雑草も取ったし、そして葉は立派なのにどうしてか咲かない。理由が分からない。

 一方、去年路傍で採取した赤い蛍袋は、植えた場所では全滅したが、種がこぼれたのか3メートルも離れたところに群生している。

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1968   いつはりの人ほど歌は巧みなりうち頷くな姫百合の花   直文

2018年06月16日 | 

 落合直文(文久元年~明治36年、42才没)は、明治の新時代に、古来の和歌を一般人に平易な言葉で作歌できるようにし、また貴族、老人のものであった和歌を若い人でも作歌できるように努めた。また門弟には真似することを戒め、個性をとても大事にした。(ウィキペディアより抜粋)

 真実を伝えるのに虚構を用いるのは、古来から世界中の文学者・哲学者・宗教者たちの常套手段である。そんなことは百も承知のはずの作者。だからこそ、「うち頷くな」と姫百合に呼びかけているのだろう。大学教授を勤めた作者の、学生への教育的短歌と言えるかもしれない。さて、いつはり(嘘)は是か非か?

サツキツツジ(皐月躑躅)

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1967   梅雨空や拡声器から尋ね人   炎火

2018年06月15日 | 

 実際あった話。行方不明になった認知症の老人が警察に保護されたが、身元がとうとう分からず、公営の老人ホームに入居して十数年経った。このような身元不明者が増えているという。

 家族は、捜索願を出さないで年金を貰い続け、入居費を払わず、一切の介護から解放されるという、甘い汁を吸い続けるという具合だ。

 核家族化が進み、おひとり様も増え、孤独死も増えている。この句はそんな中で、家が分からなくなって彷徨する老人を、家族が尋ね人として捜索している。

不幸中の幸い。まだまだ世の中、捨てたものではない。

ビヨウヤナギ(未央柳、美容柳)

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1966   第261回 岩戸句会 5月

2018年06月14日 | 岩戸句会

梅雨空や拡声器から尋ね人      炎火 

走り梅雨隈なく箱根八里かな 

   

黒砂に黒い穴ぼこ潮干狩       薪

忍術が書いてあります落し文

 

主もどる庭の金魚が騒ぎ出す     美部

潮干狩り瓦礫のシリアに続く瑠璃

 

潮干狩おむつの中も外も濡れ     海人

夏きざすテニスコートに白の映え

   

並び見しそれだけの事遠花火     洋子

来ぬ人を待つ愉しみの鯉幟

  

初夏や若きたなこに子の生まれ    稱子

囀りや一期一会の佳き宴

 

軽鴨の向う新居はビオトープ     歩智

殿様蛙羽織袴で登城

   

ツバメらは唾液と泥で巣をつくる   余白

琵琶の実が朝日に映える馬込かな

 

さえずりや仏細目に笑みたまふ    貞次

一爆の音のたしかな夏立てり

 

海霧ふかき船さらはれし如く消ゆ   佳津

発刊の俳句手にする五月かな  

 

薫風や術後給ふも縁かな       沙会

世界中離脱騒ぎや雨蛙 

 

空と海藍色の帯夏近し        鞠

夏近し空を独占鳶一羽  

 

潔ぎよし切子ガラスに心太      さくら

梅青しやたらに猫の出るテレビ  

 

老鶯や箱根神社の杜の中       イヨ

富士を背に芦の湖静か初夏の風  

 

やりとげた湖畔マラソン五月晴れ   貴美

 

へとへとにテニスして来しサングラス   雲水

山国に生れし男の潮干狩

キンシバイ(金糸梅)

  

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1965   梅雨台風ボーッと生きても叱られない

2018年06月11日 | 

 NHKのクイズバラエティー番組「チコちゃんに叱られる」が、実に面白い。特に、チコちゃんの「ボーッと生きてんじゃねえよ!!」のパフォーマンス、「ねえ、おかむらー」と呼びかけたり、「詰まんねーんだよ、お前らは!!」などの言い方が実に可笑しい。

 チコちゃんの表情が、人形にもかかわらずとても豊かで可愛いのは、CG(コンピューター・グラフィックス)を駆使しているかららしいが、いづれにしても、テレビ番組では、久し振りに大笑いしたような気がする。

ホタルブクロ(蛍袋)

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1964   目纏いに好かれています耳元で

2018年06月10日 | 

  目纏い(めまとい)は、糠子(ぬかご)、糠蠅(ぬかばえ)、まくなぎ、ぬかが、などとも言われている。特定の昆虫を指すのではなく,人間の眼のまわりにまとわりつく昆虫の総称で,小型のハエが多い。日本での代表的なのは,春先から森林の内外でしつこく眼にまとわりつくクロメマトイである。

  昨日、野草茶に入れるよもぎ(蓬)を庭で摘んだ。目まといは、何故人間の目の位置が分かるのか?いつも不思議に思うが、兎に角ブンブン目の前を飛んで来る。

  採集してから、夏蓬の茎は固いので茎をしごいて葉を外すが、テラスで作業の間も目の前でブンブン、耳元でもブンブン。

シモツケ(下野)

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1963   草花の黄を増やして梅雨入かな

2018年06月08日 | 

 今年の関東地方の梅雨入りは、平年より2日早い、一昨日の6月6日だった。入梅(にゅうばい)、梅雨入(ついり、つゆいり)ともいう。

 庭では、金糸梅・未央柳が咲き出した。蛍袋・野花菖蒲・雪の下・梅花空木・ドクダミが満開。ハンゲショウ(半夏生)も早々と色付き始めたが、調べたら絶滅危惧種だとか。庭では、生命力強く、増えているから土質が合っているのかも。

 今朝、南方で台風5号が発生し、日本列島に沿って接近し、日・月曜日あたりに場合によっては上陸するかもしれない。梅雨台風は、大雨になりやすいから、要注意だ。

キュウリの花

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1962   岩戸句会第五句集「何」あとがき  片岡余白

2018年06月07日 | 岩戸句会 第五句集「何」

  岩戸句会は平成8年5月13日(月)に熱海市伊豆山・IBM熱海保養所「ユトリウム」で産声を上げ、平成30年4月で22年目を迎えることができました。当日の参加者は雲水先生・水口・笠島・前村・桝本・原口・柳沢(敬称略)そして、余白の計八名であったと記録されています。

 当日は会名を決めたり、開催日を毎月の月曜日にするなどの概略が決まりました。会名も「ユトリウム句会」「老化損塾句会」などを経て、現在の「岩戸句会」になりました。

 会員の資格は、自由に俳句を楽しむ人で、テレビや人から聞いた、本で読んで得た情報から俳句を作るのではなく、自分でやったこと、見たことを中心にした写実的な俳句を作る人。

 出入りは自由、朗かで、明るく、真面目に俳句に取り組むことができる会員であってほしい、という雲水先生の思いの通り、会員の職業は多種多様で、茶道の先生・生け花の先生・絵描さん・能面師さん・経営者・サラリーマン・主婦など明朗闊達な方々で構成され、現在に至っています。

 ここまで長く句会が続きましたのは、発起人の「雲水」先生のご努力と熱意及び、俳句に対するゆるぎない信念、更に会場の提供があります。更に、先生の熱意に引けをとらない会員の皆様のご支援があった結果と思います。

 当会も会員の高齢化が進んでいますが、毎月一回の句会は熱気に包まれ、楽しく面白く、人生の機微を学ぶ場となり、高齢化の実態を忘れてしまう勢いです。句会後は恒例の懇親会があり、いろいろな話題で盛り上がり、時の過ぎるのを忘れ「岩戸窯」に泊めていただくことにもなります。

 余白如きは、句会黎明期から参加しているも、未だ「雲水先生」や会員のおメガネにかなわず「佳」の評価もない、体たらくですが、先生はじめ会員皆様の御恩情で句会の末席に置いて下さる、温かくも厳しい句会の雰囲気が「岩戸句会」の心情であります。

 この句集を、会員以外の方々がお読みくださったことに感謝を申し上げるとともに、是非お近くにお越しの時には、熱海市伊豆山七尾峠の「岩戸窯」をお尋ね下さるようお誘い申し上げます。

  第五句集「何」発刊に際して会員一同心から「雲水先生」に感謝を申し上げると共に、表紙は会員の美部さんにお願いしたことをご紹介し、お礼を申し上げます。

                  平成30年4月吉日   岩戸句会 片岡余白

ヒメジョオン(姫女苑)

 

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1961   ふらり来てふらり帰るや冬の山   雲水

2018年06月06日 | 岩戸句会 第五句集「何」

 十五年前のある日、尻尾を垂らし痩せこけた一匹の幼犬がやって来た。食べ物をあげたところ、そのまま居ついてしまった。モモと名付けたが、忠犬ぶりを発揮し、犬嫌いの女性に「こんな犬なら飼ってもいいわ」と言わしめるほど、我が家のアイドルになった。それから十五年、一度も病気もせず元気に暮らしていたが、ある日突然病気になった。脳梗塞のような状態で半身が不自由になり、歩くのがやっと。小さな段差でも転んでしまう始末。一週間、水も飲まず食べ物も拒否していた。それが水を飲むようになり、食べ物も少しは食べられるようになってきて三日後、突然行方不明になってしまった。不自由な体でそう遠くへは行けないはずなのに、いくら探してもどうしても見つからなかった。

 犬や猫は、死期を悟ると飼主から離れ、自然の中に帰って行くという。野良犬としてふらりとやって来て、潔く去って行ったモモ。見事としか言いようがない。

 「人間もかくあるべきだ」と教えられたような気がする。この教訓は、薬漬けの無用な延命措置への警鐘にも聞こえる。私も、かくありたいと切に願う。

 モモ、長い間有難う。 

 

初鳩の恐み恐み啄めり

目白に蜜柑切って爼始かな

薄氷を犬鼻で割り舌で飲む

どう見ても姉さん女房猫の恋

巣作りに薪ストーブが選ばるる

 

鶯が誘う三時になさりませ

山桜卑しからざる鵯の群

掌の種を啄む巣立鳥

油虫語気がブリブリしておりぬ

敏捷が生き抜くちから金魚の子

 

梅雨明けを初みんみんのファンファーレ

山雀が揺らす山百合開くかに

樹液吸う寄ってたかってたまに喧嘩

敏捷に飛び鈍重に歩し虻打たる

何気なく指を立てたら塩辛とんぼ

 

白玉に霧を捕らえし蜘蛛の網

蝉鳴かず巌にしみ入る雨の音

秋蝉をヒミツと記すカレンダー

街路樹に椋鳥の群収まりぬ

脳味噌を啄まれたり鵙の声

 

心得て流されている秋の鳶

冬が来たよヤマちゃんエナちゃんメジロちゃん

木枯や徹頭徹尾喜ぶ犬

進化論の外にごろんと赤海鼠

薪割りを鳥が見ている冬木の芽 

(岩戸句会第五句集「何」より 小坂雲水

タツナミソウ(立浪草)

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1960   哀しみの砂場に沁みるぶうらんこ   正太

2018年06月05日 | 岩戸句会 第五句集「何」

 鞦韆・ぶらんこ・ふらここ・は、公園など一年中どこにでもあるが、春の季語である。季節感の薄い季語の代表かもしれない。さて、この句の作者の哀しみが、どのようなものなのか、想像する術はない。

 しかし、一般論として、多くの他者である人々に思いを馳せてみれば、公園などのぶらんこに乗って涙を流した多く人々がいただろう歴史は、間違いなくあるに違いない。それを世界中の様々なぶらんこにまで想像が及べば、涙を流した人々の数は計りしれない。(小坂雲水記)

 正太さんのこの句は、第200回岩戸句会で、雲水先生の(天)をいただいたものです。句会報のご批評文を転用させていただきました。正太さんは、自然に囲まれた岩戸窯での句会の雰囲気が大好きで、毎月、遠くから熱心に参加されていました。(天)をいただいて、嬉しそうな笑顔が思い出されます。(石川  薪記)

 

藍瓶の冬日に醸す匂いかな

埋み火の灰足してゆく初あかり

料峭やどれも海向く駅の椅子

壺焼のなぜか男の匂いする

独り膳殻の音する浅蜊汁

 

晩年や眩しきばかり濃山吹

夕ざくら散り急がずに散っている

目覚めれば妄想こなごな梅雨鯰

迷い道遠くにとばす枇杷の種

父の日や母の日失くした子等の来る

 

バス停の風のすきまの祭笛

退院や荒んだ庭に秋の蜘蛛

破蓮や古武士のすがた垣間見る

冬晴や十指ほぐして陶土積む

立ち向かう老いの孤独に玉子酒

 

さし伸べる掌に冬虫のあとずさり

夕凍みや人が沈んでゆくように

初不動厄なき齢となりにけり

元朝や風葬の国はるかなり

匂い立つなべの潮目の新若布

 

リハビリの喉にほっこり春の粥

薫風やなぜか昔の傷うずく

癌告知友起きあがる遠花火

多摩の堰風ふところに藍浴衣

切株は男の椅子ぞ赤トンボ

 

(岩戸句会第五句集「何」より 小宮正太)

バイカウツギ(梅花空木)

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1959   鵜のむくろ喰らう鴉に迷いなし   狭心

2018年06月04日 | 岩戸句会 第五句集「何」

 自然界の習わしである光景を詠んだ掲句に、私は強い衝動を覚えた。この句の要点は、「迷いなし」にある。鴉が迷うはずがないのに、わざわざ「迷いなし」としている。句の終わりに、人間の感受性を込めているのである。

作者は、この言葉を入れることにより、鳥と人間を置き換えて考える様示唆しているのではあるまいか。「人のむくろを人は迷いなく喰らうことができるか?」

 この句、人間社会の「掟」又は「宗教」さらには「人間の不思議」についての問いかけをしている。(石川炎火記)

 

古暦捨てて来福希わんか

佐保姫の裳裾触れたか山笑う

同じ道今年も逢えて濃菫

死に近きアバンギャルドに華のあり

緑陰やみどり児笑みて瞳の青し

 

花の道憩う良夜やハイボール

野川にも「 もじり 」盛んに梅雨暮色

生臭し芽吹き降る夜の静寂かな

蟇百匹組んず解れつ春うらら

御仏の優しき里の田植かな

 

年毎に縮む身丈や盆灯籠

立ちんぼの果ての至福やトリス・ハイ

青鷺の釣り師のごとく佇めり

汗くさき工夫ら美蝶にまとわられ

函南の郷のシュールや曼珠沙華

 

あの花がこの赤の実か烏瓜

おでん鍋底に見えくる小宇宙

さくら・やなぎ枝垂競ひて水面まで

いのち昇る高木の梢一葉まで

父の日の話も無くて八十路かな

 

まどろめるドロ亀動き平和かな

うれしきは早苗田に直ぐミジンコの湧く

生存てるよ獺の叫びは幻聴か

六十年怒り治めずゲバラの眼

新蝶のルリ鮮明に目を射たり

(岩戸句会第五句集「何」より 三浦狭心)

シモツケ(下野)

 

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1958   りんご剥くお前は今も幸せか   遊石

2018年06月03日 | 岩戸句会 第五句集「何」

  私の人生の師匠でもある遊石氏が亡くなって、早二年半が過ぎようとしています。私達にとって大きな損失であると同時に、寂しさを感じ得ずにいられません。奥様を始め御家族に至っては、想像を絶する悲しみがあったことでしょう。ご冥福を祈るばかりです。

 さて、今回句集を作るにあたって、富久子夫人にお願いをしたところ、数ある遊石氏の俳句の中から表題の句を始め、計三句の思い出の句を選んで戴きました。三句共、遊石氏には珍しいご家族の句です。「私は居ないものと思ってくれ」という言葉から始まったお二人の結婚生活。旅館業を夫人に任せて、自由奔放に生き抜いた遊石氏。

  表題の句は、決して口には出さなかった、遊石氏の奥様への感謝の気持ちを込めて作られた一句だ、と思います。数々のエピソードを残された遊石氏は、皆さんにとって、自由人・粋な遊び人と思われがちですが、若かりし頃は文学に勤しみ、その後、文学だけに留まらず、音楽・料理・スポーツと興味を持ったものに対して、常に研究を重ね、実践を繰り返す研究家でした。想像を超えた読書量だったと思います。俳句だけで無く、私たちの生き方に、常に一石を投じてくれた遊石氏の俳句を存分にご賞味あれ。(御守海人記)

 

ねんねこを揺さぶり上げて米洗う

月おぼろ娘の嫁ぐ街を過ぐ

桃にみる球体の無限の羅列

哀しきはその噴水のスパイラル

で有るからして向日葵は爆発する

 

柳刃の切先しかと烏賊を引く

投げやりに焼いた秋刀魚の旨さかな

備えあり憂いも在りて歳の暮れ

会得せり粧わぬ山と粧う山

破荷似合う男の背中かな

 

万緑や洒脱な言葉見付からず

かわたれの毛虫のごとく生きてみるか

その蜘蛛は只揺れながら孤独だった

その人は一つの咳の様に消えた

なでしこの様な少女に径問われ

 

行きずりのマスクの人に会釈され

と云って貴方は蝉時雨に消えた

白日傘一瞥もせず通りけり

八つ口に春の名残の風を入れ

その猫の上に小さくリラが散った

 

菜の花や見つかる様にかくれんぼ

夏大根引く力なし山は雨

咳一つ呼吸器外科の吹き溜り

彼岸花忘れることは罪ですか

死或いは絶望する一つの咳

(岩戸句会第五句集「何」より 秋葉遊石)

キョウカノコ(京鹿の子)

 

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1957   春灯生きる証の句作かな   章子

2018年06月02日 | 岩戸句会 第五句集「何」

  章子さんとの出会いは十六、七年前でしょうか「老化損塾」ゆとりうむ句会」「岩戸句会」と名称は変わりましたが、毎月の句会を、毎回出席とはいかないものの、章子さん同様、楽しみに参加してきた私です。

  作句に励むことは、たやすい事ではありませんが、四季ある故郷に住み、四季を愛でながら五感を働かせ、歳時記を繙き作句に親しむことは、掛替えのないひとときです。

「生きる証」の句作とありますが、折節詠まれた俳句、それは取りも直さず「 生きた証」の俳句と言えましょう。

  この句を、伊藤章子さんの句と知り、以前「句会が何よりの拠所であり楽しみ」と話されていことを思い出しました。「俳句に人あり歴史あり」、春灯の季語が、作者の俳句に対する様々な想いを、更に深いものにしている、と思いました。佳吟と思い選句いたしました。体調を少し悪くされている章子さま。章子さまとの句会は愉しいひとときです。お元気になられて、またご一緒に俳句に興じましょう。

 

揺れ動く今日の心に春の風

名残雪ひとりにもある夕支度

人生の旅いま復路おぼろ月

借景の小島かき消す春時雨

明易しまだ使わずの今日がある

 

梅雨霧の谷という谷埋めつくす

百合の香の独りの闇に抱かれおり

生に飽き世に飽いたとて五月富士

いとおしむ生命のあかり朴の花

炎天下今をどこかに置き忘れ

 

磯宿へ一すじの道月見草

雲海の割れてつり舟通り過ぐ

がむしゃらに家業を継ぐや破れ蓮

友逝くや色なき風の中にいる

おほかたを生きてしまひぬ神無月

 

鰯焼く住所不定の猫の来て

仏壇に置く鬼灯と宝くじ

吊し柿長野の風と届きけり

思い出をすべて包みし紅葉山

笑う時一人と思ふ冬の夜

 

冬ざるる生き残るもの果つるもの

薄墨の衣まとひて山眠る

闇の夜に沈む山寺狐鳴く

世に飽いたとて寒月を愛でている

生と死のささやき交す冬銀河

(岩戸句会第五句集「何」より 伊藤章子)

ナルコユリ(鳴子百合)

 

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1956   サクラ葉は秋鮮やかに再登場   余白

2018年06月01日 | 岩戸句会 第五句集「何」

春の桜花は人々を明るくし、楽しませ希望を抱かせるが、その時期は短く儚い。葉桜になると、多くの人は桜の存在に気を配ることはない。そして、秋となり初冬を迎えると、桜葉は赤黄色に染まり、周囲の広葉樹の葉色を圧倒する。

そして、軽やかに舞い落ちるさまを夕べに見ると、幽玄であり神々しくもある。このような人生の終末を迎えることができることを願っています。

2014年、俳号を「空白」から「余白」に改名いたしました。

 

草木の芽いでよ萌えでよ時が来た

楽し気に桜見下ろす阿波踊り

桜とは咲いて愛でられ散りて良し

散りサクラ握り固めて死の重さ

何時もここ傾斜陽だまり蕗の薹

 

ブランコが春の嵐を乗せている

公園に箒目付けて涼を呼ぶ

みどり葉に守られ紛れ実は育つ

舗装道ひび割れ溝に草生きる

ザクロ花落ちて路上にウィンナ蛸

 

セミが飛ぶ安定悪く不安呼ぶ

セミ出でて異次元世界どう生きる

枯れ葉らの焼却処理は理に合わず

名月が黒い車の屋根に映え

枯れ葉らは風に乗って飛ぶ遠くまで

 

掻き集む枯れ葉の山や万華鏡

枯れ葉食う熊手木の根でヒャックリす

カマキリが秋の陽だまり黄泉の口

良寛が貰ってくれるかこの落ち葉

学童や半袖ズボン寒椿

 

孫が行く日陰の雪を蹴飛ばして

うら寂し枇杷の花にもメジロ来る

冬ばれに洗濯干せる笑顔かな

冬散歩帽子にマスク眼鏡かけ

見つけてね此処にいるよと霜柱

(岩戸句会第五句集「何」より 片岡余白)

テンナンショウ

 

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