(ぎんかんや/よはたがために/うつくしき)
昔読んだ、確か「星のギリシャ神話」の中に、悪行を重ねた神様(それでもやっぱり神様、というのが面白い)がゼウスの勘気に触れ、罰を受ける話があった。
悪たれの神は、大きな石を高い山の頂上まで押し上げるのだが、上げ終えた途端に大石は麓まで転げ落ちる。そして、その大石を再び山頂に上げて・・・・を永遠に続ける罰なのだ。神様はたぶん死なないのだから、正に永遠にである。
その後、この神はシシフォス(シーシュポス)であることが分かった。40年以上前のことで定かではないが、私はカミュの「シシフォスの神話」を読んだのかもしれない。(後記)
しかしよく考えてみると、この罰は神話の中だけの話ではなく、私達人間の活動とよく似ているではないか。例えば、お母さんが夫や子供のために毎日食事を作るが、あっという間に器だけが残り、洗って片付けねばならない。炊事、洗濯、掃除などその繰り返しである。お父さんが会社に行って働くのも、どんな職業でも生きている限り、同じことの繰り返しなのである。しかし、人間は、いつか死ぬのだから、いつか止める時が来るのが、救いだ。
繰り返しを罰と感じ、嫌々やるか、喜びを感じて生き生きとやるかで、人間の価値が大いに異なるのだ。つまり、一見どんなにつまらぬ仕事でも、その中から如何に喜びを探しだすか、が大事なのであって、喜びを見出す方法を発見し、実践している人間こそ、真の幸福者と言えるだろう。
さて、この句、銀漢(天の川)ではなく、「夜が美しい」と言っている。それも誰がためだろうか、という疑問文である。
答えは、作者である私、又は私達。つまり作者達のために銀漢が美しいのである。こういうまどろっこしい、謎かけのような俳句も、時には楽しいものだ。
ヒメギボウシ(姫擬宝珠)