一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

111    万人に時流るるや除夜の鐘  ひめ 

2010年12月31日 | 

人は、日常でもしばしば時の流れを意識することがある。まして一年の終わりを告げる除夜の鐘が鳴り出すとなれば尚更である。この「時が流れる」という認識は、人間特有のものだ。

 

しかし、この認識こそが人間に悲しみや愁いを生じさせ、不幸にしているのではないのか。秦の始皇帝など、古代の権力者が壮大な墓を作り、来世まで行き続ける夢を実現させようとしたのも、時の流れは止めることができない、人は必ず死に至る、ということを知ったことによるからだ。又この世の無常に対抗して、人間は神を、天国や浄土を創造し想像した。これは信じるものだけが救われるのである。

 

「今日、唯今」の中に過去、現在、未来という時が全て包含されている、という考え方がある。別の言い方をすると、過去、未来は、今を生きる人間の記憶や夢であって、存在しないのである。記憶は古ぼけた写真であり、未来は絵に描いた餅であって、唯今目の前にある単なる「紙切れ」にすぎない。

 

いづれにしても、時の流れは万人に、というより万物に平等である。 

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110  煤払い姉さん被りの似合う俺   豊春

2010年12月30日 | 

煤払い姉さん被りの似合う俺  豊春

 

神社仏閣などを除けば、死語になりつつある「煤払い」。近年の一般住宅では、煤(すす)の出るものがない。燃料に薪を使う囲炉裏などが消えたからだ。だからこの句の場合は、単に「ほこり」を払うでいいだろう。

 

作者が姉さん被りをして、鏡を見ているとはとても考えられない。誰かにそそのかされて、姉さん被りをさせられて、、「あなた、とてもよく似合うわよ」などとおだてられているのに決まっている。「そうか」と作者もその気になってご満悦なのである。

 

1年のほこりを払い終わって、いよいよ正月もすぐそこに来ていることを実感する。

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109  今生のいまが数え日少し酔ふ    しの武

2010年12月29日 | 

生まれてこの方、全ての人間は、既に余命を生きているのであるが、そんなことを日々実感しつつ暮らす人は、まずいない。癌宣告され、余命3カ月などと言われて、初めて本当の意味の命のカウントダウンが始まる。

 

 この句の作者のお齢は知らないが、下五の「少し酔ふ」によって、余り深刻ではない、と判断して良さそうだ。「数え日」という季語にぶつかって、年末のことではなく「人生」の数え日に想いは至ったのであろう。

 

 自分の死を見つめて深刻に暮らすがいいか、忘れてのんきに暮らすがいいか。

 

 私は最近犬たちから学んで、犬に倣おうとしている。それは、犬は本当に必要なことしかしないからだ。つまり、「忘れてのんきに暮らす」これでいいのだ。 

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108  年の瀬の街に座したるホームレス    空白

2010年12月28日 | 

10数年も前のことだが、早朝の浅草寺近くの隅田河畔を散歩したが、ずらっと並んだ青いビニールテントで暮らす、多くの人々がいるのには驚いた。

 

 彼らの中の何人かは、背広を着て出勤していた。一人の男性に話を聞くことができたのだが、彼が言うには、「長年、浅草に住んでいるが、最近建て替えのため、アパートを追い出された。新しいビルは、家賃が高くなり借りられない」とか。

 

 最近の日本では、年収200万円以下の人が、全労働者の40パーセントだという。これでは,大都市東京のアパートに住むことはできないだろう。世界第3位の経済大国がこの程度なのだ。

 

 そして年々、ホームレスの数は、増えているのではないのか?これは社会問題?それとも個人の資質の問題?いずれにしても昔から、乞食、浮浪者は必ずいるものではあるが・・・

 

今、多くの人達が、いつ自分がホームレスになるか分からない、そんな不安の中で暮らしている、という。他人事とは思えません。 

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107  杭を打つ掛矢の力年の暮 

2010年12月27日 | 

(くいをうつ かけやのちから としのくれ) 

  

掛矢は、木製の大きなハンマー。

住宅の基礎工事を始めるには、まず2~30本は杭を打たねばならない。地盤が固いと、振り下ろす掛矢にも相当の力を入れねばならない。体をしならせて振り下ろす渾身の一撃は、一見に価する。

 

私は、斧での薪割りを10年ほどやった。思い通りの場所に的確に斧を入れるのに、いささか自信はあるが、鳶職の彼らにはとてもかなわない。 

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106  朝凍や明星弓月鷹一羽 

2010年12月26日 | 

(あさじみや みょうじょうゆみづき たかいちわ)

 

朝凍や明星弓月鷹一羽 

 

家の新築を検討している頃、1週間ログハウスの勉強に山梨まで出かけた。今考えると、どうしてそんな寒い時にと思うほど、雪はなかったがとにかく寒かったことを記憶している。

 

宿泊していたペンションの回りは、畑が広がっていた。作物は記憶にないから、荒涼とした高原の田園風景だったと思う。

 

その後、結局ログハウスは建てなかったが、俳句によって私の脳みその記憶装置に映像として保存されている。 

 

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105  冬鳥の窓に激突快晴なり  洋子

2010年12月25日 | 

(ふゆどりの まどにげきとつ かいせいなり)

 

私の大好きな宮沢賢治に「セロ曳きのゴーシュ」という童話があります。読んでいない方は、是非お読みください。読んだ方も、もう一度お読みください。

 

その中に、家の中に入り込んだカッコーが、逃げようとして窓ガラスに激突するシーンがあります。ゴーシュは、窓を外して逃がしてやるのですが・・・・

ということは、大正・昭和初期で、既に小鳥がガラスに激突して即死する事件があった、と想像できます。アーメン

 

 私の家でも年10羽は、死んでいました。日本では、世界中では一体どのくらいの数になるのか、恐ろしくて計算する気になりません。とにかく、ものすごい数でしょう。

 

 但し、日本野鳥の会の「バードセーバー」というのがあって、単なるオオタカの写真のシールですが、これをガラスのあちこちに貼ったお陰で、5分の1に減りました。なかなか、ゼロにはなりません。

 

 人間の勝手で、多くの生き物が死んでいます。本当に人間は、罪深い動物だと思います。

 

 クリスマスに浮かれる気には、とってもなれません。アーメン 

 

 

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104  聖夜待つ亡父の手作りヴァイオリン  照子  

2010年12月24日 | 

(せいやまつ ちちのてづくり バイオリン)

  

 

聖夜とは、クリスマス・イブのこと。

 

西洋の楽器であるヴァイオリンを手作りすることはとても珍しいこと。まして「父の」となると、時代的にも大正か昭和、昭和でも戦前であろうし、これは稀有に近い。当時、輸入品は高価であったろうし、なかなか手に入らなかったであろうことも推測される。

 

そういう貴重な形見である手作りヴァイオリンを見るたびに、作者は様々なことを思い出すのだ。例えば父の仕草、父の言葉、賛美歌を弾く姿、その音色、ミサの祈り、・・・・・記憶は尽きることなく巡り始める。

 

信徒でもないのに馬鹿騒ぎする戦後のクリスマスと違い、当時のキリスト教徒のそれは、実に真摯であり、敬虔であったはずだし、そんな、聖夜をヴァイオリンと共に作者は待っているはずだ。 

 

 

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103  冬至月点滴の針ふーにゃふにゃ

2010年12月23日 | 

(とうじづき てんてきのはり ふーにゃふにゃ)

 

冬至の日、3日も下痢が治らないので、数年振りに病院へ行った。

 

血液検査・尿検査、肺・腸のレントゲン、心電図と色々やられた。結果は、インフルエンザでもノロウイルスでもなかったが、血圧が高いのが問題だそうだ。当分、血圧降下剤を飲まなければならないようだ。本命の下痢は、翌朝には治ってしまった。

 

当日驚いたのは、生まれて初めての1時間の点滴。堅ーい針が刺さっていると思い込んでいたが、点滴が終わり針を抜く時、その針が柔らかいではないか。「何だこれは?」看護婦は、自慢げに「堅い針ではないんですよー」「・・・・・・・・・」

 

「くそー、先に言ってくれよ。ずーっと、肘を伸ばしたまま、我慢していたんだぜ」とは言えなかったが、「なーんだ、これからは多少動いたり、腕を曲げてもいいんだ」この発見が嬉しかった。

 

という訳で、俳句としてはお粗末かもしれないが、久し振りの病院を吟行しての「感動の一句」でありました。俳句のために、病院を毛嫌いするのは止めることにしました。

 

「こんな句なら、私にもできそう」だって?

そう思っていただけたら、わたくし、本望でございます。 

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102  碧空へ自在に唄ふ冬木立  雲水

2010年12月22日 | 

(へきくうへ じざいにうたう ふゆこだち)

 

 

この句は、どう見ても「冬木立が唄っている」と解釈するのが自然。これを擬人化というわけだが、さて、良いかどうか?

 

欅などの大木の最先端の枝は、裸木となってよく見ると、実に無駄なくバランス良く均等に伸びているのが分かる。そういう状況を想定して、唄わない木が「唄う」と言い切っているのだが、こういう擬人化は、果たして良いのだろうか?

 

「唄う」には、作者の精神的な高揚感も感じられるし良いのではと思い、その時の私は、この句における擬人化を100%「可」としたのだが・・・・ 

 

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101  あれもせにゃでもまぁいいか年の暮  疏水

2010年12月21日 | 

あれもせにゃ でもまぁいいかとしのくれ)

 

産業革命以来の技術革新によって、私達の生活は実に快適で楽になった。交通の発達や住宅、電気製品の普及が著しい。金属などの新素材の発見や技術による様々な製品が溢れている。

 

それによって、経済活動が活発化し、日本のような小国が、世界第二の経済大国になってしまった。

 

簡単に食糧や衣料が買えて、掃除洗濯も手軽にできる時代になると、大掃除したり、おせち料理を作ったりする必要がなくなった。してもいいけれど、しなくても一向に構わない時代なのだ。

 

そういう意味で、この句、実に現代的な俳句なのである。

 

でもね、疏水さん、あんまり楽をしていると、細胞は退屈して死にたくなるそうですよ。お気を付け下さい!

 

 

 

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100  初霜や静かに明くる伊豆の海

2010年12月20日 | 

(はつしもや しずかにあくる いずのうみ)

 

先日、初霜が降り、初氷が張った。こうなって、ようやく冬を体感する。落葉に雪と紛う霜が降りている。快晴で風がない、碧空に雲がない。真っ赤な太陽が山端に上がっていた。

 

標高400mの山腹から、相模湾、初島、真鶴半島が見える。天気が良かったので、伊豆大島、三浦半島、横浜ランドマークタワーも見えた。

 

犬2匹に連れられて、散歩だ。「連れられて」というのは、なまけものの私は、犬がいなければ散歩などしないのだから、犬のお陰という意味。ふかふかの落葉道や山中を犬が駆け回る。こうして、今日という一日が始まる。 

 ユズ(柚子)

 

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99  着ぶくれの頬赤らめて乳を飲む  雲水

2010年12月19日 | 

(きぶくれの ほほあからめて ちちをのむ)

 

昔の冬の室内は、寒かった。暖房はせいぜい練炭の炬燵だけ。どこの家でもそれが普通だったから、なんとも思わなかった。歳時記を見ると、死語になりつつある季語が沢山ある。着ぶくれもその一つだ。

 

さてこの句、社会人のわが娘にもこんな時代があったのかと、懐かしく思う。それどころか私自身にも同じ時代があったのだと思うと、記憶にないだけに感無量である。

 

今年、私は還暦を迎えた。これを機にいくつかの変革をしようと思う。第一は、やせ我慢はしないこと。例えば、冬は暖かく過ごす。着ぶくれてもいい。

第二は、義理を欠くこと。結婚式や葬式、年賀状や中元など儀礼的なことは、やらない。とは言っても、なかなかすぐにできることではないが・・・・ 

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98   猟犬のわれもわれもと森に消ゆ

2010年12月18日 | 

狩、猟は、冬の季語。

 

最近、日本各地の民家近くに、猿、猪、熊などが出没し、怪我人まで出たことがニュースになっている。

私の家の周りでも、数年前から毎年猪に庭をほじくり返されている。ミミズを探していると聞くが、定かではない。2~30センチ程度の石など軽々と掘り出しているから、こんなものに猪突猛進されたらたまったものではない。猪の鼻力はものすごい。

 

私の家から山に向かって、11月から猟区になるのだが、最近は猟友会の会員が高齢化し、会員数も減少しているらしく、さっぱり猟に出掛けない。これでは、子沢山の猪は増える一方だ。

 

聞いた話だが、 

70~200キロの猪を仕留めると、山中で素早く解体し、全員に平等に分配する。内臓や腸は、ボスの家に集まって、鍋にして一杯やるそうだ。それが飛び抜けて旨いとか。

 

 

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97   冬の波わが痕跡を消し去りぬ

2010年12月17日 | 

 仮に、4大文明の頃から今日まで、地球上に何人の人間が生まれて死んでいっただろうか?

 現在の世界の人口が約70億だから、推して知るべしであろう。まして、人間以外の動物たちまで含めたら、天文学的な数字になる。

 

 今の人間の行動を見ていると、いつか必ず滅びると思われる。それがいつかは分からないが、それまでにほとんどの人は無名のまま死んでゆき、忘れ去られるのだ。

 

 滅亡後の人類の痕跡が廃墟のビルだったり、一人の人間の痕跡が墓石だったりしても、そこには、なんの意味も価値も無い。砂浜の足跡以上の価値など世の中にはないのだ。

 

 

 

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