人は、日常でもしばしば時の流れを意識することがある。まして一年の終わりを告げる除夜の鐘が鳴り出すとなれば尚更である。この「時が流れる」という認識は、人間特有のものだ。
しかし、この認識こそが人間に悲しみや愁いを生じさせ、不幸にしているのではないのか。秦の始皇帝など、古代の権力者が壮大な墓を作り、来世まで行き続ける夢を実現させようとしたのも、時の流れは止めることができない、人は必ず死に至る、ということを知ったことによるからだ。又この世の無常に対抗して、人間は神を、天国や浄土を創造し想像した。これは信じるものだけが救われるのである。
「今日、唯今」の中に過去、現在、未来という時が全て包含されている、という考え方がある。別の言い方をすると、過去、未来は、今を生きる人間の記憶や夢であって、存在しないのである。記憶は古ぼけた写真であり、未来は絵に描いた餅であって、唯今目の前にある単なる「紙切れ」にすぎない。
いづれにしても、時の流れは万人に、というより万物に平等である。