一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

80   額縁の紅葉を眺めモーニングー   タガ女

2010年11月30日 | 

ある女性と知りあったその日に「皇帝ダリア」を貰いに行った。そこのお宅は、玄関からリビングまで、5間ほどの通路があり小さな窓が並んでいた。窓を額縁として自然を見せる趣向だ。

 

 そういえば、箱根の成川美術館にも芦ノ湖を見せるため、額縁を意識して作った窓があったっけ。

 

  さて、私がこの句を採る気になったのは、「モーニングー」の「グー」にありました。最後に「ー」があったからです。勿論、グーは、goodでしょう。

 

これによって、紅葉がgood、朝も朝食もgoodという意味にもなるからです。

 

一つの言葉に複数の意味を持たす。昔から、そういうことが、大好きだった日本人。駄洒落も大いに結構。楽しくやりましょう。タガ女さん! 

 

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79   一葉忌最後の便りかもしれぬ   章子

2010年11月29日 | 

 

 56回でも書いたが、樋口一葉は、若干24才で、明治29年に肺結核のため亡くなった。1123日が命日。

 日本の暦が、陰暦(太陰太陽暦)から陽暦(グレゴリオ暦)に変わったのは、明治5年。だから一葉の忌日は、陽暦である。

 政府は、明治5年12月2日の翌日を、明治6年1月1日とした。つまり、明治5年の12月は、2日間だけだった。

 さてこの句、最後の便りかもしれない、と言っているが、貰ったのか、これから出すのかが分からない。

  貰ったとすると、相手が病気? 私が書くのなら、私が病気?その他、喧嘩したとか、様々な不測の事態があるのかもしれない。

 

もしかして、尖閣諸島問題や北朝鮮のヨンピョン島砲撃など、年が詰まって物騒な事件が起こっている。これからも平和が続くということは、まず有り得ない。残念だが、いつか必ず悪夢が訪れることを、覚悟しなければならないということか。

 それとも、隕石の衝突による世紀末でも予想しているのか?

いづれにしても、一葉忌の斡旋によって、死と関連する事態が予想される。

 

 

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78   風邪引いて逆療法の風の中    多可

2010年11月28日 | 

 

去年は、新型インフルエンザで国中が大騒ぎした。今年はどうだろうか?ワクチンは十分あるようだから、大丈夫かな? 

 

風邪を引いて、「薬を飲めば1週間で治る。安静にしていても1週間で治る。」と言うのを聞いたことがある。つまり、飲んでも飲まなくても同じらしい。なのに、皆さんしっかり薬を用意しておられる。 

 

 この句、すごいですね。若かったからこんなことができるんでしょうね。たぶん、20年以上前の句ですね。

 

しかし、さすがに止めた方が良いですよ、多可さん!もうお年なんですから!

 

 

 

 

 

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77   冬鵙の見えざるものを捕らえけり

2010年11月27日 | 

(モズ、百舌、百舌鳥)は、秋になると暖地や平地に下りてくる留鳥。その独特の鳴き声で、秋の到来を教える。昆虫や小動物を捕らえて枝に刺すので、モズの「はやにえ」と呼ばれる。 

 

薪割りをしていると、枝先でジョウビタキと共に薪の中の鉄砲虫を狙って、私が休むのを待っている。

 

さてこの句、私の作ではない。もう30年くらい前の句会の句だ。作者は男性だが、名前も記憶になく、その時限りで以後会っていない。しかし、この句だけは記憶している。

 

「見えないもの、聞こえないものさえ俳句にすることもできるのだ」ということに、なるほど・なるほどと感心した。

 

 

 

 

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76   うしろすがたのしぐれてゆくか   山頭火

2010年11月26日 | 

「自嘲」と前書きの付いたこの句、かの有名な山頭火の句である。 

なんと言っても、山頭火の人気はすごい。日本各地に句碑もあり、山頭

火の会などもある。ドラマにもなったりしている。

もしかして、人気の点では芭蕉を凌いでいるかもしれない。

 

さてこの句、「自分を客観視している」というよりも、「背後から誰

かに見られていることを意識している」感じがする。

 

例えばこれは、ある人達との別れのシーンだ。行脚を続ける山頭火

は、別れを告げて歩き出す。振り返ってみると彼らは、まだ立ったま

まこちらを見ている。再び頭を下げる。彼らも頭を下げる。なんとも

バツの悪い時間だ。

彼らに嘲られているのではないか、という思いが「自嘲」という前書きになったのではないかと、私は想像する。

 

 それは、彼の被害妄想だったのかもしれないが、事実だった可能性も強いのだ。

 

 

 

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75   木枯へピカソの顔が館を出づ

2010年11月25日 | 

 

箱根彫刻の森美術館の中にピカソ館がある。

  

行ったのは、20年以上も前のことで、紅葉狩に数人で行ったのだと思う。しかし、誰とだったかは全く覚えていない。しかし、この句だけは確かに記憶している。 

 

ピカソを見終わり、美術館の玄関を出て、振り返った時に浮かんだ句だ。すぐメモをしたと思う。自分の顔が、ピカソの絵のように寒さで歪んでいたら、面白かろう。いい句ができたと自己満足した。

  

こういうことはよくあることで、句作の楽しみではある。しかし、後でよく見直してみると、駄作のことがほとんどだ。

  

特に、深夜思いついた句は、朝見ると一体この句のどこが良いのか、自分の愚かさに恥じ入ってしまうこともよくある。 

 

 

 

 

 

 

 

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74   海に出て木枯帰るところなし   誓子

2010年11月24日 | 

「現代俳人の自選50句」というような本があった。私の句会の会員に、「この中から、好きな句を10句選んで下さい」とプリントを渡した。

 

高得点だったのが、この句。俳句をやっている人なら、ほとんど知っていると思う。

 

この句、単なる風である木枯を擬人化して、作者の孤独感を表現している。しかし、次のような解釈も成り立つ。

 

私(作者)が海(浜辺)に出たら木枯が吹いていた。私には帰るところがない。

 

「出て」と「なし」の主語が「木枯」でもあり、「私」にもなり得る、という曖昧さが、この句の良さだ。俳句の短詩という特質をうまく利用した典型と言える。

 

山口誓子は、昭和の戦前・戦後に活躍した。朝日俳壇の選者を永年務めた。

特に、「物A」と「物B」を詠み込み、読者に喜怒哀楽を感じさせるという、二物衝撃の方法を提唱したことで有名。

 

 

 

 

 

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73  八十路とは見えぬ気配り冬帽子   章子

2010年11月23日 | 

人は、「お若いですね、とても八十歳には見えません。」などと気軽にお世辞を言う。言われた方も、まず不愉快な顔はしないから、まんざらではないのだろう。

さて、八十路ともなればどんな集まりに参加しても、既に長老として気配りを受ける立場のはずなのだが、なかなかどうして、この句の方は、若い人達に頭の下がるような気配りをしている、というのだ。

明治、大正、昭和一ケタ生まれの気骨のある精神に、戦後生まれなどは到底太刀打ちできない。

 

そういう方だから、きっと身なりもきちんとしているだろうし、お洒落な冬帽子を被っているに決まっている。

 

 

 

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72  すこしづつ柵 解いて落葉掃く    薪

2010年11月22日 | 

本来、「柵」は、①木や竹で杭を打ち、横にも渡し、水を堰きとめたものを言う。水流を変えるための人工的なものだ。②転じて牧場などの地上の柵(さく)となり、③更に転じて、人に絡みつき身動きを不自由にするやっかいなものを「しがらみ」と言うようになった。 

 この句の場合は、③の「しがらみ」のこと。

政治家には有権者や正義。公務員には賄賂。会社員には上司、子には親・・・人は多くのしがらみに纏わりつかれ生活している。寒い冬も暑い夏も、つまり人にとって不快なもの、ないほうが嬉しいものも、全てしがらみであるとも言える

さて、作者は、その「しがらみ」を少しづつ解いて落ち葉を掃くという。落葉は、堆積して腐葉土となり、地に帰る。大地に絡みついた落ち葉を剥がすように掃いているのかもしれないが、そういう意味ではなかろう。

作者の頭の中に浮かぶ様々な想念、つまり煩悩を捨てつつ落葉掃きに集中しているのだ。

禅宗では、座禅によって無我の境地を得るというが、掃除などの作務も重要な修行だ。

 まさに作者は、落葉掃きによって、悟りの境地に入ろうとしている。


 

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71  北の夕遠く聞く音冬の滝   海人

2010年11月21日 | 

(きたのゆふ とおくきくおと ふゆのたき)

 この俳句、回文(上から読んでも、下から読んでも)としては、なかなかのものだ。

 新幹線沿線監視 (シンカンセンエンセンカンシ)

 ママが私にしたわがまま (ママガワタシニシタワガママ)

 確かに貸した (タシカニカシタ)

 私負けましたワ (ワタシマケマシタワ)

 イカのダンスは済んだのかい? (イカノダンスハスンダノカイ)

 たった今、雁が舞い立った (タッタイマガンガマイタッタ)

 

まだまだ、面白い回文があります。興味のある方は以下をご覧ください。

http://www.sutv.zaq.ne.jp/shirokuma/kai0001.html

 

 

 

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70  風花やふっと昨夜の香りくる  雲水

2010年11月20日 | 

仕事の手を休めて、窓の外を見る。

風花が舞っている。 

その時、昨夜の香りが鼻腔に香る。

 あるはずのないあの香りが香る。

 鼻腔の記憶、香りの記憶とでも言えようか。

 あまりにも唐突に、実際に香りが蘇るので、驚く。

 風花には、そんな力があるのです。


 

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可笑しがり蒲団が床にずり落ちそう

2010年11月19日 | 

69 

 

前回のブログに対して、「淫ら」というコメントをいただきました。有難うございます。ここで、へそ曲がりの私の好奇心がむずむず致します。

 

過去を振り返ってみますと、いくつか「淫ら」な俳句が記憶に残っております。掲句もその一つです。解説する必要はないでしょう。

 

特筆すべきは、この句が「ホトトギス」の巻頭になったということです。当時「俳句=ホトトギス」と言われたり、虚子が「俳句界の天皇」と言われていたそうですから、その影響力は絶大だったと思われます。

花鳥諷詠」「客観写生」を掲げる虚子の「ホトトギス」の巻頭に、この句が掲げられたのです。読者の驚きが目に浮かびますね。きっと虚子の遊び心が選ばせたのでしょう。 

 

このことは確か、どこかの俳句雑誌の記事で読みました。角川かもしれない。筆者は、今でもご存命で俳句結社を主宰している方かもしれない。とにかく筆者は、この句に相当のショックを受けたそうです。

 


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男体山の頂上にいて咳き込めり

2010年11月18日 | 

68 

 20年ほど前、ある女性から句集をいただいた。とても面白いユニークな句集だった。

いただいたお礼に何か書こうと、句集の中から好きな句を選ぼうと再度読み進めるうちに、この句に目が止まった。

 日光連山を代表する男体山は、妻の女峰山、子の大真名子山、小真名子山、太郎山と共に火山一家の代表となっている山だ。

  さて、作者は、その山頂にいて咳き込んだ、という。「咳」は冬の季語であるから、標高2,486mの冬の男体山は雪もあって極寒であるから、登るのさえ大変だ。

そんな山頂に(来て)ではなく(いて)??????・・・・・・何か変だ。・・・・

そこで、はっと気付いたのは、もしかして、これは「男女の行為」を暗喩しているのではないのか。

それも女性上位で、頂上つまりその極みにある時、女(作者)が咳き込んだ、ということなのではないか。

 こんなトリックのような俳句があるんだなあ。いや、これは実に面白い。参った、参った。私の解釈が正しいかどうか、彼女に聞かねばならないなあ。

礼状を出さずにぐずぐずしていると、先に彼女が訪ねてきてしまった。

 


 

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芭蕉忌やチンドン屋との鉢合わせ   遊石

2010年11月17日 | 

67 

 

芭蕉忌は、陰暦10月12日(今年は、陽暦の11月17日、つまり今日)

インターネットの記事のほとんどが、陽暦の10月12日を芭蕉忌にしている。この間違いになんとか気付いて欲しいのだが・・・・

 

さてこの句、町を歩いていると、歩行者天国の交差点で、偶然チンドン屋と鉢合わせした。

 

そう言えば、今日は芭蕉忌。もしも芭蕉がこの情景を見たら、一体どんな感慨を抱くだろう。好奇心をそそられて、子供のように後を付いて行くだろうか。それとも下手物と笑うだろうか。気にも止めないだろうか。もし作るとすれば、どんな俳句を作るだろうか。

 

ほとんど無関係と思われる芭蕉とチンドン屋との共通点は、過去の遺物であること。但し、芭蕉は、日本が滅びない限り永久に残るだろうが、チンドン屋は、まもなく滅び忘れ去られるだろう。

 

いやいや、こうして何年か振りに見たのだから、意外としぶとく生き延びていくかもしれない。チンドン屋さん、頑張れ。

作者がそんな風に見ているのではないかと、私は想像する。

 



 

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冬蝶の日溜まりにさへ留まらず

2010年11月16日 | 

66 

 

 

 

最近の日中の最高気温は178度。最低気温は、10度を割ることもある。

 

元気のないカマキリを網戸やドアノブなどに見かけるようになった。いわゆる枯蟷螂だ。熊ん蜂や蛾は、まだまだ活動している。

 

昨日は、薪を割っていたら、種類は分からないが蝶がやって来た。しばらく漂っていたが、あわただしく消えてしまった。一瞬の出来事だった。

 

私は、薪割りの手を休めた。そして思った「あの蝶は、今年のお別れに現れたのではないのか」と。嬉しくもあったが、やはり淋しい。

 

これからは、毎日がお別れの日々なのである。こういう感傷に浸るのも、晩秋というか、初冬の特徴だ。

 

 

 

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