一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

323 なめくじら生家なかりし気安さよ

2011年07月31日 | 

故郷や実家があるのは、心強いことに違いない。まして、代々続く旧家で立派な家屋敷付きなら尚更である。しかし、それは束縛となって、人を苦しめることもある。草田男の「蟇蛙長子家去る由もなし」は、そういった厭世気分を醸している。

 

それに対して、故郷に実家がないと、気楽も気楽、責任も義務も全くないのである。自分なんか、いつ死んだって大したことはない。

 

なめくじ(なめくじら、なめくじり、蛞蝓)は、かたつむり(蝸牛)の殻が退化した種属。昔の方が、ナメクジが沢山いたような気もするが、最近はあまり見かけない。

 

放置した材木を裏返すと、ヤマナメクジという大型がいて、ツノはあるらしいが、目も無い手も無い足も無い。勿論、家も無い。何を食べて暮らしているんだか。

 

ムクゲ(槿)

 

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322 笛太鼓山車は昂りふと孤独

2011年07月30日 | 

   (ふえ・たいこ・だしはたかぶり・ふとこどく)  

自分の子供時代の性格の特徴は、4人兄弟の末っ子の長男で甘やかされたせいか、わがままで自己中心的。従って、集団の中で常に孤立しており、孤独感が強かった、と思う。 

同級生に聞くと、「そんなことはなかった」と言ってくれるのだが。まあ、よくある自意識過剰だったのかもしれない。 

そんな気分を俳句にすると、掲句になる。

 

  今でも、祭りや花火、野球場やコンサート、学校など人がたくさん集まるところは、あまり好きではない。逆に当然のことながら、俳句のように独りでもできるところが居心地が良い。

 

 ということは、今までずーっと卑下していた自分の性格が、陶芸や俳句を選ばせ、30年以上も続けさせている、ということか。そういう意味では、自分の性格に卑下どころか、感謝しなければいけないのかもしれない。 

ヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)、別名アメリカヤマゴボウ

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321 浄土なる森の静寂や夕端居

2011年07月29日 | 

浄土真宗の「妙なる信者」のことを書いた「妙好人伝」という本があって、その中に「因幡の源左」という実に面白い人物の話がある。因幡(いなば)は、今の鳥取地方をいう。

 

  村の者が飼っている手に負えない荒れ牛がいるのだが、源左に預けると見事によく働くおとなしい牛になったそうだ。

 因幡では、牛のことを「デン」と言うらしく、源左も「デンよ、デンよ」と呼びかけていたそうだ。

 この話から、我が家の2匹目の犬に「デン」と名付けた。まだ1才半のやんちゃ者である。デンも野良犬の子だったのを引き取った。 

 

 さて、昼間の気温が嘘のように下がり、ヒグラシが鳴き出した。木々に囲まれた夕闇迫るテラスで、歳時記片手にビールを飲み始める。

 傍には、散歩を終え食事の済んだ2匹の犬が寝そべっている。これをこの世の浄土と呼んでもおかしくはないだろう。比較すべきあの世の浄土など、知らないし知るべくもないのだから。

 

エノコログサ(犬ころ草)、猫じゃらし、とも

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320 目が合えばボーイ寄り来る避暑ホテル

2011年07月28日 | 

タイの陶芸を見る旅先でのこと。チェンマイのホテルの庭でお茶を飲んでいた。立ち話をしている二人のボーイを何気なく見ていたら、私に気付いたボーイがさっと近寄ってきた。

用事がある訳ではないので断ったバツの悪さ・・・・唯それだけのことだ。

 

同じチェンマイの寺院の回廊を、合掌しながら般若心経を唱えて歩いていたら、お坊さんに呼び止められ、入室するよう促された。

たわいもない話の最後に、シキビのような木の枝に水を付けて、うつむいた私達の頭にその水を振りかける儀式のあと、「あなたは、日本に帰ったら良いことが起きますよ」という御託宣があった。

 

そして、日本に戻った次の日、一匹の野良犬が現れ、そのまま居ついてしまった。「あのお坊さんの言った良いこととは、このことだ」と私は確信したのである。モモと名付けた彼女は、今年早13才になった。

 

しつけらしいしつけや訓練などほとんどしないのだが、実に忠実でよく言うことを理解する。実に賢いのだ。このモモが、タイのボーイと同じなのだ.

 

目が合えば犬の寄り来る夜の秋

 

タケニグサ(竹似草、竹煮草)ケシ科

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319 オレというオレの似合わず裸の子  照子

2011年07月27日 | 

 

 

子供たちは、待ちに待った夏休みに入ったようだ。

 

ちょっと生意気でませている都会育ちの少年が、じいちゃん、ばあちゃんのいる田舎の親戚にやって来た。

従兄弟たちは真っ黒に日焼けして元気一杯の乱暴ものだ。色白で勝気な少年は彼らに負けまいと、仲間外れになるまいと「ボク」から「オレ」に言い替えている。     

それは滑稽でもあり、痛々しくもある。そんな少年の「オレ」が全く板についていない、似合わないというのだ。

 

しかし、子供は柔軟で環境への適応能力が高い。毎日、水遊びして日に焼けていくと、次第に地元の子供との距離が縮まり見分けがつかなくなって、いつの間にか「オレ」が似合ってくる。そして、夏休みが終わるころになれば、少年は一回り大きく成長して逞しくなっているに違いない。

 

 

ブーゲンビリア(オシロイバナ科)

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318 蓮の花ベンチに開く玉手箱  雲水

2011年07月26日 | 

 (はすのはなベンチにひらくたまてばこ) 

 

小田原城址の濠に、蓮の花を見に行って来た。蓮は、咲く時にポンと音がする、という言い伝えがあり、それを聞くと幸せになる、という。勿論音など聞こえるはずもなかったが・・・・・

 

 藤棚の近くにベンチがあり、お年寄りが弁当を開けようとしていた。その瞬間、「ああ、この人は浦島太郎だ」と思った。

 

 つまり、玉手箱を開けるのは、お伽噺の世界などではなく、この世の現実なのだと実感したのだ。

 竜宮城の飲めや歌えの大騒ぎは、若かりしころの楽しかった様々な思い出であろうし、玉手箱は遅かれ早かれ、私達はいつか必ず開けなければならない。

 

私の知り合いには、さっさと開けてしまった慌て者もいるし、一生開けるつもりのないような能天気もいるから、世の中面白い。

 

  

  

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317 猫じゃらし女じゃらしに使ひけり  雲水

2011年07月25日 | 

 確か、ハーバード大学で「ヒトの恋愛」を研究している女性教授の話。

 

 ある男が放つ匂いを好むか嫌うか、それは女によって十人十色。悪臭にも芳香にもなりうるらしい。とにかく、選択権は女性にあるそうだ。好まれれば相性が良くて、恋愛は成立する。

 

 そうして運よく結ばれた二人ではあるが、恋愛の蜜月は、約3年で終わるそうだ。そういえば、「三年目の浮気」という演歌があったが、この理論と合致している。

 

「夜と霧」を書いたビクトール・フランクルが言っていた。「3年経った夫婦は、見つめあってはいけない。私達夫婦が仲がいいのは、同じ方向を見つめているからだ」と。

 

 

 男が女に、又は女が男に猫じゃらしを使った時、「止めてよ」と笑い転げるか、不快感を露わにするか、無反応か、それによって二人の関係は歴然とする。

 

 猫じゃらしは、相手の心を知るのに絶好の植物なのである。

 

ヘクソカズラ(屁糞蔓)

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316   じゃんけんぽんテニス日焼けの腕揃へ  雲水

2011年07月24日 | 

50才からテニスを始めて、11年になる。30年ほど前にも誘われたことがあったのだが・・・・その時は、テニスというと、軽井沢でのお金持ちのお遊びを想像し、私のような平民のするものではないと、どういう訳か思い込んでいたので断ってしまったのだ。

 

ああ、あの時に始めていたら、もう少しは上手になっていただろうに、と後悔しきりである。これは、我が人生における後悔のベストテンに入っている。

 

さて、我々熟年テニス族は、シングルスではなくダブルスをやる。対戦メンバーを決めるのは、ほとんどジャンケン。メンバー揃ってその腕の黒いこと。

 

帰り際、近くで働く庭師が言っていた。「わしらは仕事だから仕方ねーが、あんたち、よくもまあ、このクソ暑い中でテニスをするねえ・・・・不思議でたまんねえ」

 

 

 夏に運動して日に焼けるから、お陰で冬に風邪を引いたことがない。テニスさまさま、である。

 

 

 

ノウゼンカズラ(凌霄花)

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315  青大将殺して悔いの始まりぬ  雲水

2011年07月23日 | 

  (あおだいしょうころしてくいのはじまりぬ) 

 

仕事場の庭に、1メートルはある大きな青大将が現れた。もう2度目だ。来客が驚かないためにと、とっさにこれは放置してはおけないと思い、棒で叩き殺してしまった。その時は一安心したのだが・・・・

 

さあ、それからが大変。私は、取り返しのつかない大きな過ちを犯した、という思いにさいなまれ始めた。今後も、その思いから解放されることはないだろう。

 

先日も散歩していて、小さいマムシに出会った。デンが突然よけたので、どうしたかと見つめたら、マムシだった。マムシは必死に逃げようとしていた。それはそのはず、マムシから見たら、2匹の犬と人間のほうが、余程恐ろしいのだ。

 

キャットテイル

 

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314  水垢離の身の芯まで冷えにけり  雲水

2011年07月22日 | 

 (みずごりのしんのしんまでひえにけり)

 

友人の住職に誘われて、富士宮・浅間神社の水垢離に参加したことがある。水垢離は、禊(みそぎ)と同じで、滝や池水に浸かり身を清める、古くから続く修験道の修行である。

  

本来の水垢離は、気温零下10度、水温1度というような極寒に行うもので、この寒冷による「死」に瀕した状況に遭遇したとき、人間は身体を守り、生命を維持しよういう作用が働き、深層筋も含めて、身体を一時的に収縮させて、その氣を熱源である小腸周囲の丹田に集めることらしい。

 

何も知らず、軽い気持ちで参加したのだが、気温30度から水温15度へ、神社の湧水の池に入り、合掌して1時間余り入ると、身体の芯まで冷え切ってしまった。

夏であっても、行が終わり体温が元に戻るのに、数時間かかった。

 

マツヨイグサ(待宵草),月見草とも

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313   空蝉や捨てたき物に埋もれ住む  雲水

2011年07月21日 | 

(うつせみや すてたきものに うもれすむ) 

 

 

 あろうことか、他人のゴミまで集め、自分の屋敷をゴミで埋め尽くす人が話題になるが、これだけは、どう考えても理解できない。世の中には実に不思議な人がいるものだ。

 

 ゴミではないが、趣味である特定のものを集める人種もいる。そういう行為は、リスがクルミやドングリを集めるのに似ていて、生存本能の一種だろう、と思う。

 

知り合いに、家中「蛙だらけ」という方がいる。玄関から廊下・居間・トイレまで蛙、かえる、カエル、kaeru,である。

 

つまり、お金があると、何でもやたらに買いこんで、家中物だらけ。日本中の家庭がそんな状況ではないだろうか。

本当に必要なもの以外、物を買わない集めない。これが、これからの暮らしの基本になるべきだ。

 

 

ヒルガオ

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312   炎天や毒杯を干すソクラテス  雲水

2011年07月20日 | 

(えんてんや どくはいをほす ソクラテス)

 

ソクラテスは、今から2,400年余り前(紀元前469~399)の人物である。孔子や釈迦

と同時代で、イエス・キリストより400年ほど古い。アテナイ(現在のギリシャのアテネ)に暮らし、裁判によって死刑を求められ、毒ニンジンを飲んで自決した、という。

 

ソクラテス哲学の中核は、「無知の知」であるそうだ。これを要約すると

「知らないことを知っている、と思い込むよりは、知らないことを知らない、と自覚していること」が重要なのであり、最大の賢者とは、「自分の知恵が実際には無価値であることを自覚する者である」

 

例えば、死・死後についてであるが、死は一種の幸福であると言う。なぜなら、死後については二説あって、唯物論者たちの言うように、死が全ての感覚の消失であるならば、それは人生において他の昼夜より快適だった夢一つ見ない熟睡した夜のごときものだろうし、他方あの世があるとしたならば、死んで行った様々な会いたい人たちと交わったり、問答することもできる、どちらにしろ幸福である、という。

 

 一体、ソクラテスや釈迦、孔子、キリストなどを越えた思想が、その後の2,000年間に現れたであろうか。

 

アサガオ(朝顔)

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311   草々へ梅雨明けましておめでとう

2011年07月19日 | 

 (くさぐさへ つゆあけまして おめでとう)

  私は、冬生まれだが「夏人間」である。常夏のタイとかベトナム、ハワイあたりで暮らしたい願望がある。理由は、何と言っても、Tシャツ、短パン、サンダルで暮らせるのが嬉しい。ジャンバーやストーブのいらない省エネ生活ができるからだ。バナナやパイナップルなど様々なフルーツが山ほどあるのも嬉しい。 

  気象庁の「梅雨明け宣言」が発表されれば、私だけでなく誰だって大喜びする。長かった鬱陶しく黴くさい生活からおさらばだ。

 そんなだから、庭に出た時、ついつい「おめでとう」と叫んでしまった。しかし、よく考えてみると、草木にとって、雨の降らない梅雨明け以後の方が過酷なのではないか。だからこの句には、軽率に言ってしまって申し訳ない、という懺悔の意味も含まれているである。

 

アガパンサス

 

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310   生きること斯くも面倒くさき夏

2011年07月18日 | 

(いきること かくもめんどう くさきなつ)

 

 昨日、90才の御老人に「お元気ですね」と申し上げたら、「この年になると、重りを背負っているようで、生きているのも楽じゃないよ」とおっしゃられた。

 

 更にこの夏も、うだるような何という暑さ。今年は、節電が求められ、コンクリートジャングルに住む人々にとっては、苦難の夏になっている。各地で35度を越えている。

 

 また、天気予報、紫外線予報、洗濯指数、花粉予報など多すぎる予報に、更に放射線予報と電力予報が加わった。

 

「いやあ、若くても生きていたくない、と思うことはありますよ。とにかく今日は、一日何もしないで木陰で寝ていよう」

 

「それがいい、それがいい」

 

ガクアジサイ(額紫陽花)

 

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309   喉越しの清水に神の宿りたる    

2011年07月17日 | 

(のどごしのしみずにかみのやどりたる)

 

喉を通ってゆく清水に神の存在を感じたという。

 

百五十億年前、この世に宇宙が生まれ、銀河系・太陽・地球が生まれ、酸素・水が生まれ、微生物・魚・爬虫類・哺乳類が生まれ、現代の人間へと進化してきた。その延長線上に一度の途切れもなく、私たちが今存在している。それは正に奇跡である。

 

日本には、「八百万(やおろず)の神」という言葉があるが、自然界のあらゆるものに神の存在を感じて日本人は生きてきたのであり、「八百万の神」の存在を内包するのが俳句であるともいえる。

 

野辺に咲く花に、日差しや風に、見えるもの、聞こえるものなど、自然界の全てに奇跡を感じ、神の存在を感じるのは、日本人として当然のことだ。まして、暑さに疲れた体に染み透る山の清水ともなれば。

  

ヤブカンゾウ(藪萓草)

 

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